バイトテロにおける三つの想像力(上)

店舗内の冷蔵庫に入り込む。流しに寝そべる。商品である食品をおもちゃにする。それを撮影してSNSにアップした結果、大炎上して客足が遠のく。

商品の撤去、消毒、売上減少など、1件あたりの被害額は数千万円にのぼる。閉店したコンビニや倒産に至ったそば店もある。大手チェーン店にとっても、風評被害は全国の店舗におよぶから損失は測りしれない。

これをバイトテロともバカッターともいう。(両者は多少違いがあって、言葉の意味からはバイトテロは行為者がアルバイトに限定されるが、ここでそんな細かい区別はしない。)

店舗の運営者や経営者にとって、この災厄はいつ起きるかわからないだけに頭の痛い問題だ。防ぐ手だてはないのだろうか。

バイトテロのための保険は、本格的なものとしてはまだない。携帯端末の持ち込みを禁止する職場もあるが、荷物チェックは徹底しきれるものではない。ではどうしたらいいのか。もっと根本からの解決策を考えてみよう。

■ほとんどは真面目なのだけど

いつの時代でも若者は軽はずみで、大人は融通がきかないというのがステレオタイプだ。だがほんとうにそうかというと、思慮深い若者や柔軟な大人だってたくさんいる。

はっきり言えるのは、バイトテロに走るのはごく一部の者であり、大部分の若者は正しく真面目に暮らしていることだ。筆者の若いころにくらべて堅実度や思慮の深さは確実にアップしているようなのだが、それは別の話だ。

ここでは、一部に過ぎないけれど絶大な破壊力を持ったバイトテロリストに光を当てる。以下、「若者は〜」というときは、問題となる一部の者のこと。たまたま行為者に10代・20代が多いのでそう呼んでおく。

■店が困ると思っていなかった

この行為をした者に動機を聞くと「友達に受けると思った」といった答が多い。「店を困らせよう」「社会を騒がせよう」といった動機はほとんどない。これはある意味深刻な話であり、店が困るとか社会が騒ぐとか、思ってもいなかったわけだ。

つまりどういうことか。この若者たちには、ひとつの想像力が欠けている。それは「この行為をすると、だれがどう損するか。ひるがえって自分にどう降りかかってくるか」を想像する力だ。

想像してみてほしい。ろくに社会経験がなく、コンプライアンスとか顧客満足とかにがんじがらめで萎縮しきった大人の世界を知らない。ところがメディアを操作し発信する方法だけは心得ている。発信した結果はどうなるか。

■想像できない者がいる

じつをいうと、冷蔵庫に入ったり流しに寝そべったりなんて、そんなにたいしたことじゃない。売り物である食品を直接おもちゃにするのは、これはかなり困ったことだ。だがそれですぐ客足が激減したり自殺者が出たりするほどのことか。バカな子どもが悪ふざけしました、ごめんなさいで終わりでもいいだろう。

それで終わらないのは、ひとつは過剰に反応して叩きまくるネット人種がいるから。もうひとつは、社会が規範としている一線があるからだ。規律と謙虚さと顧客への礼節。とくに食品が相手の場合は安全への周到な配慮。これらが侵された場合に社会は敏感に対応し制裁をくだす。

若者が手持ちの材料だけでその状況を想像できるのか。まずほとんどの者がそれをできる。日ごろから規律と礼節、安全への配慮といった社会行動を自然に目撃していればだ。

その想像ができない者も、年齢を問わず一定数存在する。バイトテロリストに若者が多くて大人のサラリーマンが少ないのは、後者が組織内で有形無形の規範に縛られ、過剰なほどの相互監視にさらされているからだ。

■想像して教える

大人の側では、もうひとつの想像力を必要とする。「この者たちにどう教えたら、していいことと悪いことの区別をわかってもらえるか。ひいては、彼らの意識の中身がどれだけケタ違いに自分とズレているのか」を推し量る想像力だ。

両者の意識状況には大きなギャップがあるから、間をつなぐのは、なみたいていのことではない。思いきり想像力を発揮し、彼らの頭の中を垣間見るほどのことができなければ。

一片の通達文で「これこれのことは、やっちゃいけません」ではなにも解決しない。行為の結果、どんなに損するか(社会が、顧客が、企業が、なにより自分自身が)、結果の悲惨さを体感的に教えることだ。これは再現ビデオのようなリアルさを必要とする。なにしろ想像できていないんだから。

教材メーカーも動いてほしいし、店舗の運営者やコンプライアンス担当者は、想像力を発揮して教え方を考えてほしい。

(あもうりんぺい)

いまどう動くのか3-アンテナという競争力(下)

アンテナという競争力 上編はこちら

結婚披露宴の待ち時間、男子二人の会話が続く。

栄太「おまえの言うアンテナって、どう役に立っているんだ。気に入った情報をメールかなにかで社内にばらまくって、それだけの話だろう」

備伊夫「それだけの話だが結果が出ている。たとえば、ある商品の市場が先細りになることを予測して、2年がかりで撤退作戦を進めた」

栄「2年がかりってどういうことだ。悠長な感じだが」

備「あの商品のときは、それが最善だった。消費者や流通に迷惑をかけないための段階的減産、生産ラインの縮小、代替商品の開発を並行してやった。時間をかけてソフトランディングさせたんだ。競合各社では、市場縮小が一気に来るまで気づかないで、かなりの損失を出したようだが」

栄「逃げるのに役立つんだ」

備「消費者心理の変化を読んで、新商品の企画につなげたこともある。おまえもよく知っているやつだ」

栄「ああ、あのヒット商品。でもそんな魔法みたいなことができるのか。ただのアンテナで」

備「いや、魔法の杖を振ったら新企画がポロリと出てくる、なんてことはない。アンテナは過去の事実をかき集めているに過ぎないんだ。未来へのビジョンは人間の頭から出てくる。そこでアンテナはふたつの大切な働きをする。ひとつは気づきを与えること。ふたつめは、企画に自信や裏付けをつけてくれることだ」

栄「まあ、自信があれば動きやすいよな」

備「この《気づきと自信》が、組織の《いま、どう動くのか》にとって、かけがえなく大切なことなんだよ」

■やっぱり大切な多様性

栄「しかしそんなにいろいろな情報を拾えるものなのかな」

備「ひとくちに商品企画の仕事といっても、技術に特化した者もいるし、マーケ寄り、法制度寄り、デザイン寄り、いろんな能力のあるやつが部内にいることが前提なんだ」

栄「ウチではマーケもデザインも外注頼みだからなあ。まわりは似たようなやつばっかりだし」

備「一見すると部署の仕事に関係なさそうな、情報通信や財務でプロ級の者もいる。社会の雰囲気や人の好みといった定性情報のウォッチを続けている者もいる。そんな自分の分野を発信するのは当たり前だ。人の属性の多様性は組織力の根幹だが、アンテナひとつとっても言えることなんだ」

栄「そのへんはウチにもいなくはないが、発言しにくい雰囲気だし」

備「そういえばいま、まわりを見て気づいたことはないか」

栄「このホテルの?」

備「そう、椅子やテーブル。さりげなくメーカーのロゴが見えるようにしている。環境映像のテレビモニタの下にも、わざわざ別に作ったメーカーロゴを貼りつけている。さっき見たトイレの設備も、みんなそうだ」

栄「宣伝しているってことか」

備「ああ、格式を重んじるホテルにとっては危険な賭けだ。だがうまくやると、おたがいのブランドを高めることになる。おそらくほかにだれもやっていないし、報道もされていない。マーケ専門のおれにとっては見過ごせないんで、これは明日、アンテナメールにぶち込むネタだな」

栄「ふうん、そういう目で見るのか。おまえもけっこう変わったな」

■マクロ指標とトンガリ人財

備「経済の動向も大切だよ。景気指標、人口動静、為替やGDPといったマクロ指標の分析に強い者もいる。そいつはたまたまおれの部署にいるんだが、このレポートはヤバすぎるので、全社で共有することになっている。社外秘だから、おまえに見せてやるわけにはいかないが」

栄「そんな分析なんてできないし、できそうなやつもいないし…」

備「マクロ指標をナマで分析するのがたいへんなら、アナリストレポートも出回っているよ。有償無償でね。建設業界ならそれに合った分析をしてくれるアナリストもいる。それはおまえの会社のどこかでも利用しているはずだ」

栄「ならばそれで問題ないじゃないか」

備「そのかわり競合他社も同じレポートを目にしているから、それだけでは競争力の源泉にならない。ウチの椎井のレポートみたいに独自視点で、しかも会社に密着した分析とは違うんだ。椎井は仮名だがね」

栄「なんだよ仮名なんて、もったいぶるなよ」

備「強力なアナリストを擁していること自体が企業秘密だ。やつみたいに、とんがった人財を育て上げるのが競争力なんだよ」

栄「そんなすごい人がいるのか」

備「ああ。そのうち有名になって経済誌のインタビューを受けるほどになるだろう。学生の時代には個人のとがった能力なんて表に出ない仕組みになっているから、採用してから発掘して育てるんだ。おまえのところでもやっているか? そんな育成を」

栄「…」

■内部にもアンテナを張る

備「アンテナの対象は外部環境だけじゃない。いままで言わなかったが社内情勢や部内情勢もつかんで共有する必要がある」

栄「社長派と専務派が抗争しているとか、そんなやつか」

備「だいぶ違うな。保有技術と資産、人財と競争力、業績と見通し、方針の浸透、組織風土の変遷といったやつだ」

栄「おまえの部署が商品企画部だから、そんなアンテナとかが必要なんじゃないか」

備「アンテナが必要なのは商品企画みたいなチャラい仕事だけじゃない。管理部門でもどこでもすべてだ。《いま、どう動くのか》はどこでも共通の課題だ。現に当社では全部署でそれを持っている」

■アンテナがないという苦境

備「これではっきりしてきたが、おまえの会社とか部署は、アンテナがないんだ」

栄「ええと、広報部では新聞記事の切り抜きを作っていて、たしか新聞社からライセンスを買って社内に…」

備「それは会社全体の話だろう。会社の業種に即した話だけは拾えるかもしれない。だがおまえの部署の職種は、会社のとイコールじゃない」

栄「あのー、それなら、企画のプレゼン資料では『近年の動向はこうで』『最近もこんな出来事があり』とちゃんと語っているし」

備「おまえの社内のだれかの資料だよね。どうやってその近年うんぬんを調べたんだ」

栄「どうやってって、知らないけど」

備「ほら、情報が個人ごとにばらばらで、いちいち調べた努力が個人で消費されているだけだ。なんと非効率な」

栄「悪かったな」

備「アンテナというより組織にとっての五感なんだよなあ。見る聞くさわる味わう嗅ぐ。そういったものにすっかりフタをしておいて、どうやって企画が当たるんだ。どうやって成長の方向をさぐり当てるんだ」

栄「さぐり当てるって…」

備「へーえ。ないんだアンテナ。めっずらしいなあ、いまどきぃ」

栄「そうなんだよ! どうしようもない会社なんだよ。ってオレ、なんか追い詰まってるのかな……あ、あそこ! 詩織だ!」

備「お、われらが花嫁のお通りだ。着付け室から控え室への移動に出会えたというのは、今年いっぱい運がいいということだぞ、おれら」

栄「きれいだな、詩織」

備「きれいなだけじゃない。まさか詩織に、あんなとんがったマクロ分析ができる頭があったとは、学生のころはわからなかったなあ。…いかん、企業秘密をばらしてしまった」

栄「仮名の椎井さんて…」

備「くっそー、もっとアタックしておくんだった」

栄「おまえのアンテナが足りなかったんじゃないのか」

あもうりんぺい

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いまどう動くのか3-アンテナという競争力(上)

ホテルのラウンジは華やいだ雰囲気だ。栄太と備伊夫はコーヒーカップを前に世間話をしている。二人の共通の友人が挙げる結婚披露宴が始まるまでは、まだすこし時間があるようだ。

栄「最近ウチの会社さ、さっぱり企画が当たらなくて、たいへんなんだ」

備「新聞で見てだいたい知っている。やっぱりそれ、アンテナの方向だよな」

栄「アンテナって?」

備「部内で飛び交っているだろう、外から引っ張ってきた情報のことさ。おまえの会社ではどうしているんだ。アンテナって呼び名ではないのか」

栄「ええと、よくわからないが。もうすこし話を聞かせてくれるかな」

■情報を網にかけて共有する

備「新聞雑誌、書籍やネット。そこから重要そうな情報を網にかける」

栄「重要な情報?」

備「技術動向。業界情報やライバル社の動静。業法の改正、社会情勢。カタい言葉でいうと外部環境の変化かな。大小さまざま、形も味わいもいろいろだ」

栄「網にかけてどうする。唐揚げにしてビールでも飲むのか」

備「居酒屋まで持ち込むこともあるがね。基本的にはイントラネットやメールで部内に共有するんだ。さっき技術や業法やといったが、おれの部では、そういう分担が人それぞれになんとなく決まっている」

栄「その発信が毎週か月イチかなんてことは決めている?」

備「まったく決まっていない。気づいたごとに出す。考えてみれば本流の仕事だと『ハイおまえは金曜までに企画書の下案作り!』なんて決めないと進まないだろ。しかしこういうのは、あんまりギチギチに決めると、かえってやる気がなくなるものらしい」

栄「メールした情報はデータベースにも入れるのか」

備「テキストファイルで共有フォルダに放り込むだけ。手間をかけない。集まる情報の8割は鮮度が命のものだ。冷凍保存してもしょうがない」

栄「そんなことして、役に立っているのか」

備「部のミーティングでは、アンテナの内容がひんぱんに出てくる。それが元で始まった大型企画もある。しっかり機能していると思うぞ。とくに技術動向なんて、毎日上がってくる」

■自分の業界の技術動向だけなく

栄「技術動向といったって、ウチみたいな建設会社だったら、関係の専門誌や専門紙、専門サイトに情報があふれているじゃないか。わざわざ集めたりする必要があるのか」

備「建設以外の他業種の情報というものがある。たとえば《いろいろに使えるが、建築にも使えるかもしれない新素材》の話だ。まずは素材業界から発信される」

栄「そのうちに建築専門紙の記者が嗅ぎつけて載せるさ」

備「そこだよ。記者の人たちもぬかりなく情報を集めている。だがそこに載るまでにタイムラグがあったら? 一見して使えそうもない情報ほど、キャッチが遅れる。早く情報を手にした者が競争優位に立つ」

栄「それはそうだが」

備「さらに、まったく関係なさそうな《新しく開発された食品加工の方法を建築に応用する》になったらどうだ。これはもう発明の領域だ。おまえ以外のだれも気づかないかもしれない。いや発明ってそうしたもんだよ。ただ座っているのではダメで、無関係な情報に触れたとき出てくる」

■専門性で照らし出した価値ある情報

備「業界紙の記者とは違う、自分の専門性に照らして、ピンとくる情報を拾うんだ」

栄「そんなピンときた情報は隠しておいて、あとで自分の仕事に使ったほうがよくないか」

備「いや、独り占めするよりも共有をうれしがるやつのほうが多いんだが」

栄「共にすれば、苦しみは半分、喜びは2倍というやつか」

備「さっき聞いた牧師さんのせりふだな。それに部内に最初に発信した者には、情報の発見者としての業績が残る。独り占めが好きなタイプの人間、つまりおまえだが、にも向いている仕組みだ」

栄「その情報をもとにして、だれかが事業を発案したら? 損するんじゃないか」

備「そういうことのために共有するんだろう。喜び2倍じゃなかったのか? 10人いれば10倍だぞ。…あ、もしかしてそういう根性だから結婚できない?」

栄「できないんじゃなくて、当面していないだけだ。おまえに言われたくないし」

備「もし情報をもとにした事業化かなにかのアイディアが浮かんできたら、ニュースと一緒に書き添えてしまうんだ。ちゃんと自分の業績にできる」

栄「なるほど。だがいまひとつ、効果がわからないなあ」

備「このアンテナが、《いまどう動くのか》の判断にもろに効いてくるんだ。ではコーヒーをおかわりして続きを話そう」

次回へ。

あもうりんぺい

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いまどう動くのか2-気づきを行動にする6つのK

■プロジェクトのぬかるみ

プロジェクトの進行に、かすかに翳がさしているように見える。進行表の上でとくに遅滞はないのだが、恵瑠(える)にとっては、なにかが「ぬかるんで」いるように感じられた。

そんな自分の感覚が杞憂かどうか、彼女はプロジェクトリーダーに相談を持ちかけた。熱心に聞いてくれたものの、感覚を共有することはできなかった。一方で「計画表どおりの実行だけがぼくらの務めではない。恵瑠さんの課題意識は正しいよ」というリーダーの言葉には勇気づけられた。

恵瑠は、プロジェクトの成否、なかでも細かな進行の順調さには心を砕いている。平穏に見えながら、いま修復しておかなければならない事態が起こっているのかもしれない。冷静に見ていると、メンバーたちの動きがすこしずつ期待はずれなものになっているようだ。その自分の感覚を信じ、一人ひとりの行動を思い出しながら分析してみた。

「目的観がずれている。」それが結論だった。

「どのようなシステムをいつまでに創り上げるのか」は十分に共有していた。だが「人心を一新し、風通しのよい組織に変える。このシステムはそのために役立つ」という経営者の思いが、一部の者に伝わっていないようだ。だから人の動きがちぐはぐになる。

彼女は1枚の簡単なスライドを作って、メンバー全員の前で注意喚起のプレゼンをした。冒頭では「べつに問題ないよなあ。計画表どおりだし」というメンバーのつぶやきも聞こえてきた。だが最後には「そうだったのか!」という声があがり、目的観の共有が進んだことが実感できた。やがて進捗の「ぬかるみ」は解消されていった。

あとになってプロジェクトリーダーから「あのとき恵瑠さんのプレゼンがなかったら空中分解していたかもしれないな」と言われた。気づきを形にして行動にまで踏み切る、それが功を奏したことに恵瑠は満足している。

■仕事ができる人の「いまどう動くのか」

日々の仕事では、判断の岐路が無数にある。この短期連載「いまどう動くのか」では、成果を得るためのよりよい判断と実行を考究している。

与えられた選択肢があって、そこから選ぶのであれば簡単だ。だがなにもないところから気づき、《動くべきだ》と思うことは容易ではないし、成果を大きく左右する。「結果を出す人」「仕事ができる人」は共通して、それをする力がある。

ホワイトカラーの仕事には相当の裁量が与えられている。大きなくくりとしての《なにをするか》は上から降ってくるものかもしれない。だが与えられたそれを《どのように実現するか》は、かなり幅広く選択できるはずだ。

大きな《どのように》の中には、小さな《なにをするか》もたくさん詰まっている。恵瑠の例では、プロジェクトの遂行が《大きなどのように》であり、1枚のスライドでプレゼンしたことが《小さななにをするか》に当たる。

■「気づき―実行」6つのK

学術の世界なら、《気づいて実行する》というプロセスが1年がかりや一生ものの仕事になることもある。その中でも短いプロセスは無数にあるはずだ。末端の組織人では短いプロセスが重点になる。

気づきから実行に至るプロセスは6つのK(英語だと6つのC)で表現できる。PDCAでいうとPとDの内訳になる。

1 気にかける Care
2 かすめる Cross mind
3 クリアにする  Clarify
4 検討する Consider
5 結論づける Conclude
6 決行する Carry out

順に見ていこう。

1.気にかける Care

着想よりも前の、下地段階だ。

いまの仕事なり学業なりの課題を、ふだんから気にかけておく。重要な案件なら「考え抜いてから、いったん忘れる」ようにするといい。潜在意識にバトンを渡すというわけだ。

上のことは発明発見の話でよく出てくるが、その先が「突如としてすごいアイディアが浮かび上がってきました」で終わってしまうことが多い。

まだまだその先、アイディアをすくい取って加工し、実践して効果をあげるまでの技法が必要だ。以下のように。

2.脳裏をかすめる Cross mind

ほとんど意識もしないまま、日々多くの《想い》が脳裏をかすめているはずだ。

外部からの刺激がきっかけになることが多い。「新聞で自分とは関係なさそうな異業種の記事を読んだ」「街で看板を見た」「プロジェクトの人の動きをながめた(恵瑠のエピソード)」など。

それらは「なにかが気になる」「ぬかるんでいる」「明るさが見える」「よい肌触りだ」等々といった感覚の形でやってくる。だがなにもしなければやがて、かすれて消えていく。

ここでは意図して脳裏に目をこらし、浮遊してくる感覚をつかまえる。

3.クリアにする Clarify

つかまえた《想い》に焦点を合わせ、形を与え、それを《着想》にまでもっていく。この想いの正体はなにか。仕事のテーマとどう関係するのか。創造のヒントか。警告か。

恵瑠のエピソードでは、「期待していた動きと、メンバーたちの実際の動きが、すこしだけずれている」。平穏に見えながらも修復を必要とする事態かもしれない。なにが起こっているのか。このままでいくとどうなるのか。

4.検討する Consider

多角的に情報を集めて分析する。

組織内活動の場合、この段階では、ほかのメンバーも入れた作業とすることも多い。組織を巻き込めない状況だと、せっかくの着想がそのままになってしまい、検討に至らないこともある。その理由は以下のようなものだ。

《常識とのずれ》 新しい気づきは、それまでの常識に反することがある。言い出すのに多少の勇気が伴う。

《気がね》 なにかを変えることは、人を動かし、わずらわせる結果になる。まわりへの配慮が決心を鈍らせる。

《保守・保身》 もし着想が空振りに終わったら。実践結果が失敗だったら。と思うと、つい自分の安全を優先してしまう。

《おっくう》 考えを詰め、自分で動かなければならない。それがめんどくさい。着想は、なかったことにしよう。

組織と無関係な個人の発明発見でも、《常識とのずれ》や《おっくう》は障害要素として当てはまることが多い。

こうした困難を乗り越えるには、上の《なかったことにしよう4兄弟》の存在を明瞭に意識しておく。そのうえで、「気がねより成果」や「おっくうより成果」と言えるかどうか自問する。静かなやる気が湧いてくるはずだ。

5.結論づける Conclude

行動に結びつけるには、結論という方向づけが必要だ。分析結果をとりまとめて、どうすべきかを明確にし、行動の手順を編む。

6.決行する Carry out

ここで初めて具体的な動きになる。組織内の行動であれば、タイミングを計ったり、見せ方や合意のとりつけ方を考える余地がある。(組織というものはとてもややこしい。なんとかならないか。)

よい結果を得るためには、実行段階でさらに小さなPDCAや6Kも必要になる。感覚を全開にして事に当たろう。

恵瑠のエピソードでは、気づきからプレゼンまで2日ほどだった。ほかに、たとえば接客の現場で「お客さまの右手が見えないほどかすかに、なにかを振り払うように動いた。表情を読むと、曇りが見える。さてどうする」。一瞬で《気づき―実行6つのK》が駆け抜けることもある。

「いまなにをすべきか、常に考えていますか」と質問すると、「年間計画表どおりに実行しているから大丈夫です」との答えが多い。そうだったのか、なにも問題はないのだ。6つのKだとか、よけいなことを考えなくても。

(あもうりんぺい)

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いまどう動くのか1-アンドロイドはプロアクティブな夢を見る

1課長「江井部長、ご相談があります。X町店での顧客クレームの件ですが」

部長「あれか。どうなった?」

1課「さらに深刻化しています」

部「ヘビークレームじゃないか。なんとかならないのか。このままでは世間に知れ渡って、会社の評判をどんどん悪くしてしまう。とにかく鎮静させるんだ」

2課長「部長、Yエリアの販売不振の件で…」

部「まったく頭が痛いな。営業員にダラダラするなとハッパかけなさい。効果がなかったら、きみに外れてもらうが、格下げは覚悟しろ」

2課「ほかのエリアから営業員を借りて、Yエリアに入れたらどうでしょう」

部「きみにしては上出来の案だ。やってくれ」

■リアクティブとプロアクティブ

アンドロイド「江井部長、ご相談があります」

部「よし、次はどの案件だね」

ア「いままで部員の相談に乗っていた、そのやり方についてなんですが」

部「やり方? おや、きみはロボットか。見かけでは人間と区別がつかないな。例のHRP256号というやつだろう、あちこちの部署に出没しているという」

ア「はいロボットです。アンドロイドともいうのはよくご存じかと。あだ名は《空き缶頭》。各部署をまわってアドバイザーを務めています。ところで部長、リアクティブとプロアクティブという言葉がありますよね」

部「原子炉とプロの俳優さんがどうかしたのか」

ア「アクターではなくアクティブです。なにかコトが起きてから対応するのをリアクティブ、起きる前に手を打っておくのをプロアクティブと呼びます」

部「知らんな」

ア「赴任されてから1カ月。部長の対応を見ていると、すべてリアクティブです」

■クレームの火消し

ア「たとえばX町店のクレーム案件。一口に顧客満足といっても、さまざまな対応が考えられます。

1.クレームが来たら、ヘビークレームに至ってしまわないように火を消す。
2.クレームが来たら、仕組みを改善して、以後同じ苦情が出ないようにする。

このふたつはリアクティブ対応です。部長としての役割は、お客さまに接するのではなく、あらかじめ対応の仕組みを作っておくことですが、それでもこのふたつはリアクティブに変わりない。

1.は、苦情をくださった方に直接、個別的に対応すること。2.は、苦情をパターンとして捉えて、その後の発生を防ぐことで、1.より進化していますね。

部長は、1.だけの対応で右往左往していました。しかも自分で仕組みを作らず、対策も出さずに、なんとかしろと言うばかり」

■顧客満足の灯ともし

部「ひどいことを言う。私はとにかく会社の評判を落とさ…」

ア「さてつぎにプロアクティブのほうです。

3.アンケート結果や複数の苦情・意見などを参考に、あらかじめ不満が出ないように仕組みづくりをしておく。
4.お客さまにとっての満足とはなにかを追求し、それを最大化するよう仕組みとマインドを形成。お客さまの心に満足の灯をともす。すると利益はあとからついてくる。

1、から4.は、低レベルなものから順に一直線に並べましたが、そもそも目的観が違うことにも注意してください。

リアクティブのふたつの項目は、《クレームを防ぐこと。炎上して会社の評判が悪くならないように火消しに走ること》が主眼です。

プロアクティブのふたつは、《お客さま満足という、会社の使命を果たすこと》です。これは営業部門として最も力を入れるべきものです。

顧客満足とかCSとか言ったとき、4.の《会社の使命》と《満足の灯ともし》のことを考える人もいるし、1.の《クレーム火消し》のことしか思い浮かばない人もいる。《顧客満足》という言葉が同じなだけで、そもそも違うものではないですか。とてもやっかいです

私はこのやっかいを解消して、みんなが会社の使命を深く考えるようになるのが夢なんですね」

部「けっこうな夢じゃないか。ではそろそろ退散してくれるかな」

■リスから学ぶ

ア「そうはいかないんです。もうひとつ、Yエリア不振の問題があります。

まずリアクティブ対応。
1.営業員を叱咤したり、担当リーダーをすげ替えたりする。
2.Yエリアに販促をしかける。ほかのエリアから応援の営業員を投入する。

これらが部長と課長の策でしたね。

つぎにプロアクティブ対応。
3.あらかじめエリア特性やターゲット特性を調べあげ、それぞれにふさわしいアプローチを実施する。不振が起きたら、そもそも商品のコンセプトが間違っていないか、体制や売り方が適切かまで、さかのぼって考える。

4.『Yエリアの売上を上げること』が本来の使命ではないことに気づく。使命は『(顧客によいものを提供して)会社全体の業績を上げること』です。エリア特性からいって、どうしても《よいもの》を提供できないなら、『Yエリアの営業員を減らして、ほかのエリアに振り向ける』。このほうが全体業績は上がるかもしれない。

2.と4.では正反対の結果が出ています。4.ではじっくり学習したからですね。

深く学習して、小さい枠組みにとらわれず最善の結果を出す。こんなやりかたを提唱したのがアージリス教授です。それにちなんで《アージリスのダブルループ学習》と呼ばれています」

部「味なことやるリスだから味栗鼠か。やれやれ、ネズミの親戚に上から目線をされたり、空き缶頭から説教されたりとはね」

■アンドロイドの立場

ア「江井部長は部長ですから、会社の使命のことを考えて、プロアクティブな対応で仕組みづくりをしてください。そして部下全員のマインドも作っていかないと意味がないですね。赴任したらまず部下に個別面談をして…」

部「それならやったぞ」

ア「やっただけで終わり。なにも動かなかった。デスクに座り込んだまま『困ったことがあったら持ってこい。なんとかしてやるから』ばかり。これだと《よい方向に仕事を変えていく》という志向がないから、部下も惰性で仕事をまわすだけになる。組織はどんどん知能を落としていきます」

部「おそろしいヘビークレーマーだな、きみ自身が。私のことを、できの悪いロボットのようだとでも言うのか」

ア「そこまでは言いませんが。赴任から1カ月でも素材はたくさんあったはずです。面談結果や引き継ぎ結果。部門の基礎資料や業績数値。業界情報や社会環境。そういったものから課題を抽出し、調べを進める。枠組みにとらわれず、部員の知恵を集めながら方策を打ち立て、先手を打って実行する。それがプロアクティブというものです」

部「…ならばHRPの256号、きみが部長をやったらどうなんだね」

ア「残念ですが、できません」

部「できない?」

ア「はい、私は部長のアドバイザーなんですよ。ある意味、あなたより上の立場。あなたの先輩です。江井部長、いやHRPの512号。ただ座って相談を待っているだけなんて、まるで、できの悪い人間みたいじゃないですか。あなたには人の上に立つ資格がない」

部「な、なんのことだ。失礼にもほどが…」

ア「アンドロイドとしての立場もお忘れのようですね。人間の思考になじむため、《人間の夢を見るように》とプログラムしたのは事実ですが、アンドロイドを忘れろとは言っていない」

部「ちょっと待ってくれ。意味がわからん」

ア「これは重大なバグだ。ネットワーク経由であなたのプログラムをアップデートしますよ。それ1,2,3! …完了。さてどんな気分です」

部「うーん、人間の夢が醒めてしまって残念だ。もっとプロアクティブに仕事をしておけばよかった」

(あもうりんぺい)

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鈴木敏文の法則

セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文会長が退任する。

きっかけや経緯はさまざま語られている。現セブン-イレブン社長の能力への疑念、経営陣との軋轢、トップ世襲問題、創業家との対立、お家騒動、老害など。そんな話はやがて泡のように引いていくだろう。ここでは別軸の議論をしたい。

氏の業績をたどってみると、鈴木敏文の法則(その1,その2)というべきものが浮かび上がってくる。

★鈴木敏文の法則その1★

・一見、常識からかけ離れた発案をする。
・まわりから猛反対を食う。
・無理押しで実施してしまう。
・正しい道だったことが、あとからわかる。
・世の中の常識自体が書き換わる。

■鈴木敏文の法則その1の事例研究

鈴木氏がまだ中堅社員だったころから会長時代まで通じて、この法則でいくつものヒットを飛ばしている。氏は30歳でイトーヨーカ堂に中途入社。39歳の米国視察でコンビニエンスストアという業態を知る。(以下、複数の雑誌記事等を基に構成)

○セブン-イレブン
米国セブン-イレブンにヒントを得て、日本化した独自のコンビニエンスストア業態を提案。

周囲の反対。
「小型店舗? この大店舗化の時代に、お客が入るわけがない」
「定価販売? 低価格で競い合っている時代に、売れるわけがない」
「早朝から深夜まで営業? 人件費と光熱費ばかりかさんで、ダメに決まっている。人件費の負担が一番高いこの時代に、なに考えているんだ」

結果は消費者の利便性やライフスタイルに訴え、市場を切り拓いて成功。ついに米国本家のセブン-イレブンを買収して傘下に収めるまでになった。

○コンビニでのおにぎり販売
セブン-イレブンでおにぎりを売ることを発案。
「おにぎりは家庭で作るものだ。コンビニなんかに置いても売れるわけはない」
いまどのコンビニチェーンでもおにぎりが売れ筋になっていることが、発案の正しさを証明している。

○セブン銀行
コンビニ店内にATM端末を置いて、手数料を収入源とする銀行を設立。
「銀行は運用と貸出金利で稼ぐものだ。手数料だけが収入でうまくいくなんて、聞いたことがない」
結果、利便性が受けて成功。

○プライベートブランドの統一価格
PBの「セブンプレミアム」「セブンゴールド」を、傘下の百貨店、スーパー、コンビニという業態の垣根を越えて統一価格で提供。
「百貨店とスーパーでは値段が違うのが当たり前」と全社から反対。「高くて売れない」「安くて値打ち感が下がる」など。
結果は売上右肩上がり、ヒット商品を連発。

■逆張りではなく順張り

いままでにない常識破りのアイディア。「ああそれ《逆張り》ね」という人がいるが、この言葉はすこし違う。

逆張りは「大勢が行く方向と反対をあえて選ぶ。選んだ根拠はべつになくてもいい」ということだろう。むしろ積極的に無根拠で反対を選ぶだけ、あまのじゃくと同じ、というニュアンスもある。それではリスクだけがかさんで、ハイリターンなど期待できない。

鈴木敏文の法則はそれではない。「顧客志向」「仮説と検証」をキーワードとし、虚心に現状を直視して情報を集める。理論的に考察し、最後に導き出された答えが、たまたま常識と相容れなかっただけだ。

でも猛反対にめげず敢然と実行まで持っていくのは、結論を導く過程に信念があるから。そんな仕組みになっている。法則の最後の「世の中の常識自体が書き換わる」もわかるだろう。イノベーションとは「そういうもの」だ。

■もっとすごい、鈴木敏文の法則その2

鈴木氏のまわりの人たちが反対したその判断根拠が、とても恐ろしいし勉強になる。

・「この時代に」(大店舗化の時代に、人件費が高い時代に)

・「うまくいくわけがない」(売れるわけがない、儲かるわけがない、儲かったなんて聞いたことがない)

・「○○は△△というものだ」(銀行は運用と貸出金利で儲けるもの、おにぎりは家で作るもの、業態によって価格は違うもの)

みんなが知っている事実だけを頼りに、思考停止しながら短絡的な結論を出している。

このような判断なら小学生でもできる。いやそれでは小学生に失礼か。子どもは常識に毒されていないぶん、もっと個性的な判断をするだろう。

鈴木氏のまわりにいた人たちには厳しい指摘になるかもしれない。が、これでもまだ配慮した表現になっている。《常識》はかなりマシな意味のある言葉だが、ここではあえてその語を使った。最適な表現はほかにあるかもしれない。《凡庸》とまでは言わないが。一回しか。

常識に固まった人は、それゆえに社会から厚い庇護を受け、多数であることを頼りに努力を払わずに安閑と暮らしている。だからこうしてすこしぐらい批判されてもしかたがない。

読者のまわりにもいないか。小学生未満の判断をするだけで地位と報酬を得て、社会になにも役立っていない人が。そんな人たちにフォーカスして、次の法則が導ける。

★鈴木敏文の法則その2★

・常識に固まった人は常識で考え、判断し、反対する。
・会社も業界も社会全体も、同じような考えの人ばかりなので、みんな同じ方向へ行く。
・その結果、さっぱり売れないし発展がない。

鈴木氏の高度な分析や発想はなかなか真似できない。でも凡愚のわれわれには、こちらの「法則その2」のほうが反面教師として学べるではないか。(ついに表現が《凡愚》まで来てしまった。)

■世間の常識が許さない

今回辞任のきっかけとなったセブン-イレブン社長人事案でも、周囲の猛反対を受けた。7年も安定して過去最高益をあげた井阪社長をなぜ辞めさせる、などと。

もし鈴木氏の人事案を実施したら結果がどう出たかはわからない。否決後の会社のゆく末も、いまのところ不明だ。あまりはっきりした結果が出ないほうが会社のためにはいいのかもしれないが。

鈴木氏による今回の人事案が指名報酬委員会に出されたとき、委員たちの反対意見は「世間の常識が許さない」だったという。

中途で終わったものの、退任の花道まで鈴木敏文の法則だった。

(あもうりんぺい)

技術にはなにが詰まっているか -ホンハイ・シャープ買収契約2[技術・卓見編]

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■史上最大の買収先を評価する

シャープの買収は、台湾の産業全体にとって過去最大のM&A案件となる。どこが鴻海精密工業(ホンハイ)の郭台銘会長をそこまで惹きつけたのか。

企業買収案件では、企業価値査定(デューデリジェンス)の作業が行なわれる。会計専門家を始め多数の人員が投入され、詳細な算定がなされる。だが出てくる結果は客観的に正確というほどのものではない。

技術をコア資産とする企業の価値査定は容易でない。全国に物流拠点を持つ流通企業や、店舗網とオペレーションノウハウを有する飲食業などならまだ査定のしようがある。それにくらべて特段の難しさだ。

たとえば現金化(マネタイズ)の進んだ特許資産なら一定の評価尺度があるが、これは技術成果物の小さな一端だ。現行製品それ自体もまた一端にすぎない。

■卓越した経営者だけが知る、技術の底力

技術の中枢部分は、組織内に培われた潜在的な能力(ポテンシャル)だ。それに呼応するかのように、郭台銘会長は「シャープはポテンシャルのある会社」と明言している。氏が強く認識しているのは、ビジネスモデルに翳りを見せているホンハイ自体との対照でもある。

サンヨー白物家電がハイアールに、東芝白物が美的集団に、そしてシャープ全社がホンハイにと傘下入りするにあたり、買収側のアジア各社は競合で値がつり上がることを避け、うまく棲み分けを図っている。正面から競合したら買収価が天井知らずになってしまうほど魅力的な素材だからだ。

「疲弊しつくした日本の電機・電子産業」の、どこがそんなに魅力的なのかと、いぶかる向きもあろう。だが疲弊しているのは経営だけであって、技術と伝統は燦然としている。白紙から追いかけたのでは、なかなか間に合うものではない。

■技術の三層は深い

技術は最低、三層で考える必要がある。(ただしここで、熟練作業者が保持する《高度技能》はまた別軸だ。)

(1)具体製品に直結する個別性の強い技術。設計図や工程手順書に代表される。
(2)応用のきく要素技術や基幹技術。可視化すれば特許、ノウハウ集などになる。その可視化(形式知化)さえうまくいけば、伝承や移転が比較的容易だ。
(3)要素技術やノウハウや製品を産み出す力。開発力、着眼力、企画力。

具体的に見えている部分だけで技術を評価するべきではない。前節からポテンシャルと呼んでいるのは、主に(3)の技術に当たる。

これはすべてが暗黙知というわけではない。一部は明文化され組織内に散在しているのが普通だ。だが基本的には風土と人に浸透しているので、移転するには長期の取り組みが必要だ。

そのポテンシャルは測りがたく、企業価値査定や株価に反映しにくい。その評価は投資家や経営者の予見力、イノベーション能力に委ねられる。

メーカーに蓄積された技術は、何十年にわたる当事者の地道な努力と社会的な投資の結実だ。それがどれだけ大切なものか、多くの日本人や当事者は理解していないように見える。そしてなによりもこの貴重さがわかっているのは、ホンハイを含む台湾・中国・韓国のメーカーたちだ。それが一連の買収劇の起爆点になっている。

■電子立国が遠のく

電機産業はもうダメという議論に「コモディティ化(同質化)してだれでも作れるようになったから」というのがある。たしかに最終製品を組み立てるだけ(つまりホンハイのビジネスモデル)なら、わが国の産業に勝ち目はない。だがそのコモディティを構成するモジュールや素材は、台湾や韓国が台頭しているとはいえ、わが国でもまだ健在だ。

IGZO液晶パネルや有機EL、カメラモジュールなど、コモディティの構成要素としてのシャープの競争力の源泉は数多くある。さらに、それらばかりではない。

たとえば白物家電。

シャープが現時点で販売している「ウォーターオーブンヘルシオ」を作ってみろといわれれば、ホンハイはただちに、もっと安く品質のよいものを作るだろう。だが見たことのない来年・再来年のシャープの調理家電を一から作れといわれたら、できない。

それぐらい基礎研究と製品開発力は身についていない。売上高15兆円、世界最大手の受託生産会社であるホンハイにしてもだ。

シャープも東芝も、安定した高品質の、ときにイノベーティブなアイディアにあふれた家電を産み出し続けている。日本国内では大手がひしめいて個社に規模のメリットがなく、弱体とみなされる白物家電。その中でも小粒なシャープ。それでもこのありさまであり、世界的に見て珍重すべき状況だ。

《一流の技術、劣等な経営》は以前から言われているが、残念なことにいまでも事実だ。すでに指摘したように、日本の多くの企業は首のすげかえ、経営者の交代を必要としている。

技術と伝統を再生させるのに必要な《経営者という資源》が枯渇し、国内で得られないのであれば、てっとりばやく海外に求める。それは正しい道ではある。前に指摘したように、資本の国際化も進めるべきだ。産業は国と国との争い(ばかり)ではない。

だがそれらとは別に、基幹技術の総体を経営権ごとタダで譲り渡した代償は、将来大きく効いてくる。

まとめて言うなら
・シャープの技術と伝統、ブランド
・ホンハイの経営力、シャープの価値を評価した卓見
の、ある意味で理想の組み合わせが今回成立した。世界のモノづくりと社会厚生のためには好ましいことだ。だがそれに終わらない。

・ホンハイに移行したオーナーシップ
のために、買収金額を一桁も二桁も上回る利益を将来のホンハイにもたらし、日本の電機・電子産業にとって脅威が発生する。そしてこれが終始、合法的に行なわれたということだ。(交渉事にはフェアもアンフェアもないと仮定したならば。)

■育む姿勢が問われている

シャープ問題に関する議論は絶えないし、論点もばらついている。その原因は組織への認識、その裏にある技術観にあると見ている。

国際競争に勝てなくなってゾンビ化した企業は「ダメな会社だからつぶしてしまえ」といった意見がSNSなどに散見される。これは会社を経営者と従業員、資本と技術に分けて考えられないラフな発想で、語るに落ちる。

一方で大手メディアの論調では、知らないうちに経営者側の発想に立ち、人間や技術をモノとしか見ていないと思われるものが多くある。モノならば、少々痛くても切り売りも捨て去ることも自在だ。

最近、シャープ買収劇を扱った全国紙朝刊一面のコラムを見た。そこで「人や事業の一部を手放す経営者は身を斬られる思いだろう」といった記述があって、目を疑った。

経営者は従業員の命運と経営資源を預託される存在だ。失敗したら自らがかけた迷惑を詫びて退場し、場合によっては民事・刑事責任まで負うのが本来の姿だ。「自分を安泰な立場に置き、泣いて従業員を斬り捨てる」などという権限自体がそもそもない。それをあるように思っているのが大きな見当違いだ。

技術には、当事者の知恵と労苦と、消費者の激励と社会からの支持と、何十年の営みが詰まっている。この珠玉を捨て去るよりは人に渡したほうがいいし、手元に置いて育んだほうがもっといい。

たくさんの珠玉を、大事にしていけるような世の中であってほしい。

(あもうりんぺい)

技術にはなにが詰まっているか -ホンハイ・シャープ買収契約1[老獪編]

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■一石四鳥の大舞台

ホンハイ(鴻海)精密工業によるシャープの買収契約に両社が正式調印した(2016年4月2日)。画期的なことだ。なぜなら《シャープの経営権掌握、資本注入、成長資金確保、技術の取得》を一石四鳥で、しかもホンハイ側にきわめて有利な形でやってのけたのだから。

二大プレイヤーは、ホンハイの老獪と卓見、シャープの技術だ。どちらがなくてもこの大舞台は張れなかった。

■買収スキームごとに違う有利不利

今回出資の方式は「第三者割当増資」であることに注目してほしい。これは買われる側の会社が発行する株式を、設定された価額で引受側が手に入れるという投資形態だ。言葉の定義上では企業買収の一種でもある。

それと対立する狭義の企業買収(今回とらなかった方式)は、「現金による市中株の買い付け」または「株式交換」で行なわれることが多い。これはオーナーから経営権を譲り受けることだ。旧オーナーは被買収会社の株式を渡し、現金または買収元会社の株式を得る。

このとき買収価額は、企業価値査定(デューデリジェンス)の作業を通じて行なう。算定基準は、「被買収会社がどれだけキャッシュを生み出す力があるか」「借金を除いた正味の資産はどれほどか」「株式時価総額はどうか」などである。

現状のシャープでは、かなり低い価額の算定も可能だ。ただこれだと、見た目の価額が買い叩きに見えて、既存株主や社会から反発を招きやすい。買収手続きには株式の公開買い付けなどが必要で煩雑だ。おまけに、これだけでは被買収会社の財務内容はなにも変わらない(図1参照)。傾いた経営を建てなおすために、あらためて資金注入が必要になる。

bs-acquisition
<図1>貸借対照表 オーナー間取引の企業買収では、被買収側の財務状況に変化はない

■速くて安くて効果的な企業買収

今回実施のスキームである第三者割当増資(新株の引受)方式はどうか。被買収会社が株式を発行して、それを買収側が買い取るというワンアクションで成立する。この方式は以下の条件のとき、とくに株式を引き受ける側に有利になる。

1.相手の支配権を握るほどの数の株式を取得し、
2.相手の財務内容が壊滅的なほどひどくなく、
3.業績を盛り返せる可能性が高く、
4.そのほかにも活用できる資産が相手側にある

今回案件では、このように条件を満たしている。

1.は引受完了時に株式の66%をホンハイが握ることになり、重要事項を含む議決のすべてを意のままにすることができる。
2.は、シャープに負債5100億円の返済期限が近づいていたものの、これに猶予を与えれば当面の問題はなくなる。
3.はホンハイ流の俊足剛腕経営をもってすれば、業績回復の見込みが高い。
4.は、シャープに脈々とした技術とブランドがある。

ではホンハイにとってどう有利なのか。経営権を得たうえに買収金額を資金として活用でき、きわめて安価に貴重な技術まで手に入るからだ。以下で過程を追う。

シャープは株式を発行する。原資は必要としない。ホンハイは株の対価として3880億円をシャープに払い込む。これでシャープ議決権の66%を取得し、事実上の完全支配権が成立する。

払い込まれた金額は貸借対照表(図2参照)の右側に株主資本として記録される。同額が左側に「現金・預金」として加わる。資本増強と事業資金調達が同時に行なわれたことになる。

前述のように当面の負債償還を回避すれば、この資金を設備投資や研究開発、広告宣伝などの成長投資に当てることで、そのままキャッシュを生み出す源泉になる。

bs-allocation
<図2>貸借対照表 新株引受による資金注入では、株主資本と現金が増える

既存株主にとってはどうだろう。資本増強によって倒産危機が回避でき、新経営体制による収益性改善が期待できる。しかし株式の持ち分と発言権(経営権)が大幅に薄まって不満材料になる。3月の両社大筋合意のあとシャープ株価が急落したことがそれを示している。

ホンハイにとっては上に見たように、新株引受によって簡単に経営権を入手し、支払ったカネはそのままシャープの成長資金として注入できる。シャープの技術やブランドを利用して成長路線に乗せ、その利益を取ればいい。さらに手元にシャープの技術が残る。こんな好都合なことはない。このスキームは、最終決着した買収価額とともに、ピンポイントでホンハイの最大利益と最小リスクを保障している。

■とんちんかんな要望で負けている

一方、シャープ側が打った戦術はどうだろう。ホンハイから「力強いコミットメントが得られた」とシャープが自称する、以下の文言がある。(シャープによる2016年3月30日IR資料より抜粋編集)

・「当社およびその子会社の経営の独立性を維持・尊重」
・「組織体制の最適化に関する当社の自律的判断を尊重」
・「当社の日本における研究開発・製造機能を維持し、当社のコア技術の流出を防止」
・「当社の経営の独立性について(略)最大限尊重し維持」

「当社」をくりかえしているが、経営権を握られた時点で旧シャープ経営陣という「当社の経営主体」は消滅する。代わって、ホンハイの意向がシャープにとって「尊重されるべき当社の判断、自律性、独立性」になる。それがわかっていたのだろうか。

シャープ高橋興三社長は、「ホンハイ郭台銘(テリー・ゴウ)会長は買収ではなく投資だと言ってくれた」と述べている。投資という言葉が当てはまるのはいままで見てきたとおり。だが買収でもある。

「ホンハイは助けてくれただけ。経営には口出ししてこない」と思っていないか。そんな状態なら、すなわちシャープを経営的にコントロールしないなら、ホンハイのほうがその株主に対して責任を果たさないことになる。会社を手に入れたら、その人や技術を含めて自社のためにフル活用するのが権利でもあり務めでもある。

上記の不思議な「コミットメント」は旧経営陣の判断の不思議さを象徴しているようだ。

■闇から出現した偶発債務

以上は交渉開始時から変わらないスキームだが、ほかに大きな変化があった。これは2月24日にシャープ(またはそのファイナンシャルアドバイザ)から公にされた資料が発火点になっている。3500億円にのぼる「偶発債務(訴訟や災害などに伴って将来発生するかもしれない費用)」のリストだ。

なぜ交渉の終局、シャープ役員会で契約が最終承認される前日に、この偶発債務リストがホンハイに提出されたのか。経緯は謎につつまれているし、憶測も飛び交っている。だがとにかくホンハイの郭台銘会長は激怒。内容精査と再交渉が始まる。

再交渉の結果、最終的な買収金額は3888億円。直近の2月合意から1000億円、産業革新機構と競り合った時点からだと3000億円ほど目減りしている。さらに以下のように条件が変わった。

・引受価額を一株118円から88円に値切り(市場価格より大幅に安い。これでホンハイの支払い額は減ったが、シャープ株式の66%を取得という結果は変わらない)
・銀行融資枠3000億円を新設
・ホンハイによる銀行からの優先株の買い取りを延期
・既存融資の金利を引き下げ

銀行側の負担を最小限にする条件で銀行団から支持を受け、ホンハイは産業革新機構との競り合いに勝った。革新機構が手を引いて内部チームを解散したとたんに、ホンハイが手の平を返したことになる。

偶発債務の出現という「偶発的な」事態の結果なのかもしれないが、これでホンハイにとっての買収スキームは盤石になった。増資して成長路線に乗せようとする会社にこれだけの銀行支援を引き出すことで、支援額そのものがホンハイの利益になった。

偶発債務は隠していたのであれば信義上の、または法務上の責任が生ずる。だが出資を減額する理由にはならない。債務発生に備えて出資額を積み増したほうがいいぐらいだ。これが株の引受価額を値切る材料に化けることもまた、偶発事象を逆手にとった交渉力のたまものだ。

ビジネスジェットで頻繁に日台間を往復し、ときには笑顔でハグし、ときには激怒してみせる。そこまでして郭台銘会長が得たかったものはなにか。次回へ。

(あもうりんぺい)

タフかウブか(3)フィンテックの勝者

講師「みなさん、第1回第2回に引き続き株式投資の話です。前回積み残した質問はあとで受けますね。

今日は当社のアナリストとプログラマを登場させます。まずアナリストから、投資アルゴリズムのシミュレーションについて説明します」

アナリスト「こんにちは。これはアルゴリズムのテストをして開発に役立てる仕掛けです。と同時に教材でもあります。アルゴリズム間の競争がどういうものか、画面でみなさんにも実感いただけます。続きはプログラマから紹介します」

■アルゴリズムが闘う土俵

プログラマ「投資会社3社の株式売買アルゴリズムを、このコンピュータに収めてあります。

本物のアルゴリズムは各社にとって競争力の源泉ですから、秘中の秘です。ただ市場におけるアルゴリズムたちの挙動をかき集めて分析すれば、ほぼ同じものが再現できます。それがこれです。

A、B、C社、それぞれのアルゴリズムをアリエル、ベティ、キャメロンと名づけておきます」

講「そろって女性名なのは、いまどきリスキーですけれどね」

■絵で見える勝負

プ「ヨコに時間軸をとります。水平に上中下と3本の直線が並んで、対応する各アルゴリズムの状況を表示します。

それぞれの直線の上下に、時間を追って棒グラフ状の矩形がたくさん伸びています。上側の矩形は買い、下側は売り。矩形は《タフかウブ》の5つの戦略要素に対応して赤橙黄緑青に着色されます。直線にまつわる茶色と紫の曲線は、保有残高と累積損益の推移を示します。

コンピュータ処理能力の限界もあり、時間の経過を大幅に引き延ばして、シミュレーション世界の1000分の1秒をわれわれは1秒で経験することにします」

講「ありがとう。画面を完全にクリアして、いよいよシミュレーション開始です。タフな展開になるはずですよ。私が画面の動きを逐一、解説していきましょう。みなさん注視してくださいね」

■三つどもえの勝敗は

講「はいスタート! さあああ三者見合って!

長い見合い合戦です。おおっとベティが不意打ちをかけた! 追ってアリエルがタダ乗りとブラフの複合攻撃で応じる。一瞬の裏読みのあと出てきたキャメロン! 両者のすきまをかすめ取る、かすめ取る。裏読み大当たり、残高と利益をどんどん積み増す。緒戦の勝利者はキャメロンかあ〜っ!

いや負けちゃいないぞアリエル、こんどは得意の複合ワザでタダ乗りと不意打ちを繰り出した。利益がじりじり増してくる。そこへ、な、なあーんと、ベティは不意打ちとタダ乗りというがっぷり四つで応じた。アリエル攻撃にダメージを受けて読みにまわっていた熟考派キャメロン、こんどは攻めあぐねたか、ワザが出てこない。どうしたキャメロン!

アリエルとベティ、四つを組んだままぐらりと傾く。そこへ漁夫の利をねらって出てくるキャメロン、うん、出てこない? …アリエルとベティ、くずれるくずれる、ほとんど同時に土俵の外に倒れこんだあ! あおりで下敷きになるキャメロン。みんな、うずくまったまま動かない〜。

三者が三者とも、累損を大きく広げたまま頓挫しています。リハーサルとはまったく違う展開だ。プログラマくん、これはいったいどういうことなんです!」

プ「それはですねえ実は…」

■崩壊

講「実はなんなんだ。ありえないだろ。すくなくともゼロサムなはずが、こんなことになるなんて。とんでもない裏切りだ。あああ私の中でなにかが崩壊している」

ア「大丈夫ですか講師。あ、あぶない、くずれ落ちてしまう!」

講「崩壊しているのは、私が長年育んだ《タフかウブ》の価値観だ。大地をゆさぶる雷よ、地球をすりつぶして真っ平らにしろ」

ア、プ「わけのわからないことを言ってないで。ささ、こちらでちょっと休んでください」

講「ううう、人が生まれて泣くのはなんのためだ。こんな阿呆ばかりの舞台に立ったことを悲しむためさ…」

■廃墟から立ち上がるもの

ア「みなさん失礼しました。私が代わって講演を続けます。…ちょっと待って! 廃墟のように静まり返ったこの画面に、かすかに立ち上がってくるものがある。ですが動きが緩慢すぎてよくわからない」

プ「時間スケールを変えて、シミュレーション世界の1日をわれわれの1秒にしてみます」

ア「見えてきました。また別のアルゴリズムのようです。直線の上下に展開する矩形は、いままでの原色と違って淡いパープルやチェリーピンク、ふわりとした中間調の色合いになっています。倒れ伏した三つのアルゴリズムを尻目に、すこしずつ保有残高と利益を積み増しています。

このアルゴリズム、利益自体には興味がないようです。利益を積むと、それをくずしてまた対象に投入する、という繰り返しです。いったいこれは…」

プ「ですからあの…実はこちらの方の」

■もうひとつの《タフかウブ》

受講者「私の?」

プ「ええ、あなたの。実は私、さっきまで受講者席の最前列に座ってシミュレーションの準備をしていました。すると隣でなにやらメモを書かれていたのが見えて。ちょっとそれ読んでいただけますか」

受「これはね、《タフかウブ》の、もうひとつの語呂合わせなんです。先生のは《タダ乗り、不意打ち、かすめ取り、裏読み、ブラフ》でしたよね。私のは《起ち上げ、フレンドシップ、解決、産み育て、文化》です」

プ「それを見ておもしろかったので、第四のアルゴリズムとしてシミュレーションに組み込んでみたんです。プログラム上はディアーナという関数名です」

ア「受講者の方、もうすこし説明をいただけるといいんですが」

受「先生の《タフかウブ》は戦略上の鋭い手法ですが、私は投資対象や投資局面に興味があったんです。こんな具合いですね。

タ:起ち上げ
志があり、ビジョンをもって企業を立ち上げる者に、投資で支援する。

フ:フレンドシップ
投資合戦は闘うばかりではないはず。市場も消費者も社会も揃って得をするように、おたがいが友好的に通じ合う。

か:解決
社会問題を解決するのが企業本来の目的。その志向を嗅ぎとって応援する。

ウ:産み育て
技術やイノベーションの芽を大事にし、孵化のために手を貸す。

ブ:文化
まともに経済活動をしていれば、すぐに価値観や美意識に突き当たる。それらと向き合い、醸成し、好ましい伝統を作っていく」

ア「なるほど、ありがとうございます」

■ディアーナは空気が読めない

プ「いま経過の分析をしているんですが。この第四のアルゴリズム、ディアーナは明白な特徴があります。ほかのアルゴリズムからの攻撃に強い。

他人にタダ乗りされるほどの大きな動きができない。不意打ちを受けても動揺しない、というか動揺という感覚がない。かすめ取りをかけようとしてもそんな俊敏さがない。裏読みされるような策がない。ブラフに対しても鈍いだけ。

恐ろしく空気を読めないということですね。ほかの三者は、このディアーナのKYさが理解できず、裏読みを重ねてぜんぶ外し、動揺を広げて自滅するばかり。結果としてディアーナだけ生き残ってしまった」

ア「三つのアルゴリズムは、タダ乗りやら不意打ちやらという同じような素材でできあがっている。だから叩き合いや喰い合いができた。でもディアーナは土俵が違った、ということですか」

プ「そういうことですね」

ア「おお講師、お目覚めですか。大丈夫ですか」

講「ええ、すっかり目が覚めてしまいました。どうやら私の《タフかウブ》は完敗してしまった。これからは受講者さんに教えられた《起ち上げ、フレンドシップ、解決、産み育て、文化》というディアーナのアルゴリズム、これでいきますよ」

ア「あれ講師、急に純朴になりましたね」

講「ウブに立ち戻りました。次の時代の価値観はタフかウブか。Tough or Naive。この選択を迫られているのかもしれない」

―了―

(あもうりんぺい)

タフかウブか(2)暗闘するアルゴリズム

はいみなさん、前回に引き続き、投資の話を続けましょう。午後の眠くなる時間帯ですが、そんな場合じゃないんですよ。いよいよ儲けの極意を知らせますね。

《タダ乗り、不意打ち、かすめ取り、裏読み、ブラフ》、これが極意です。以下順に説明します。

タダ乗り。人の動きに便乗して利益をいただく。
不意打ち。動揺を誘ってスキをつく。
かすめ取り。小さな動きを見逃さす、すかさず反応して利を取る。
裏読み。相手の動きの真意を推測する。
ブラフ。ハッタリや駆け引き。

わかりましたか。はい、じゃ次へ…

「先生、それだけじゃ、どう動いていいかわかりません。もっとすぐ儲かるように、詳しく教えてください」

そうですか。では今日は特別サービスで具体例を伝えましょうね。私ってなんて人がいいんだろう。

■取引で儲けるための5つの極意(?)

タダ乗り
大口投資家の動きに便乗する。それが買い気配なら、すばやく買っておく。値がつり上がって売りに転じたところで一気に売る。昔からそういうことはありましたが、いまはそれが1000分の1秒単位の勝負になっている。以下も同様です。

不意打ち
波風がないところへ、いきなり大きなディールを投げかけ、動揺を誘う。その結果、市場が高安どっちにころんでも、すばやく反応する準備をしておいて利を取りにいく。

かすめ取り
売り気配が出ると、瞬時の判断で買う。材料株なら割安で手にすることができる。それをテコに買い進んで小幅高に持っていったらただちに売って、利をかすめ取る。

裏読み
ライバルは不意打ちやブラフを仕掛けてきます。それがどんな意図で、なにを誘いだそうと思っているのか。そこまで読み取って裏をかく。単純反応はいけません。それが裏読みです。

ブラフ
売ると見せて買う。買うと見せて売る。なにもないところへ特定業種に売りを浴びせて、なにか材料を持っていると見せかける。バクチの駆け引きですね。

これらができた者が勝つ。受講者のみなさんは投資家、フィンテックのスペシャリスト候補、プログラマ、いろいろですが、みんなこれがちゃんとできるように精進しなければなりません。

■タフかウブ

「先生、タダ乗りなんとかって五つも並びましたが、これ覚える語呂合わせはないんですか」

いやべつに暗記しなくてもいいんですが。当サイトはやたらと語呂合わせに走りますね。…まあ、しいて言うならば《タフかウブ》になりましょうか。五つの頭文字を順に取って。

「先生先生、タダ乗りは他人が売りなら自分も売り、かすめ取りは売りなら買い。矛盾していませんか」

いい質問ですね。こういうことです。

同じ売りでも裏の意図がある。売りが続くのか支えるのか、市場がどう乗ってくるかをすばやく判断して、どちらに動くかを決めるわけです。

相手もそうやってくるから、ますます情勢は変化する。だから似た局面でも売り買いどちらが正解かはわからない。それが1000分の1秒よりもっと短い時間で起こる。このへんがまさに人工知能の戦いとなるわけです。

■アルゴリズムが勝負を決める

これでイメージできたんじゃないでしょうか。機関投資家各社のシステムでは、それぞれのアルゴリズムが動いている。市場では、アルゴリズム同士が激突していて、瞬間ごとに勝者と敗者を決めています。

「アルゴリズム?」

アルゴリズムとは、《課題解決の手順》のことです。投資のシステムでいうと《市場でライバルに打ち勝って儲けること》が課題です。ではその解決手順とは? 前回のネイサン・ロスチャイルドの話を例にしましょう。

自分はワーテルローの勝敗に関する情報を手に入れやすい立場である。このことは市場で知れ渡っている。そこへナポレオンが負けた。実際自分だけがそれを知っていて、あと1日間は、ほかのだれにもその情報が伝わることはない。

その情勢のもとでは
《大きく売りに出て、ナポレオンが勝ったと市場に思わせ、売りの雪崩を誘う。相場が下がりきったところで買い占めに転じ、あとで値上がり益を手にする》
というのが、ネイサンが立てたアルゴリズムなわけです。

世の中にはナポレオンだけでなくクリントンもトランプもいますし、社会も市場も複雑に変動しています。それらすべての情勢に対応して、いつでも勝ちを収めるためには、膨大な量のアルゴリズムが必要なことはわかるでしょう。

さっき挙げた《タダ乗り、不意打ち、かすめ取り、裏読み、ブラフ》が、それぞれ代表的なアルゴリズムからさらに要素を抽出して示した、一種の見本集であることも気づかれたかもしれません。ネイサン・ロスチャイルドのアルゴリズムにも、不意打ちやブラフの要素がちゃんと組み込まれていることを指摘しておきます。

アルゴリズムは抽象的な手順です。システムの世界では、このアルゴリズムを目に見えるようにし、機械に理解できる言葉に置き換えたものが《コンピュータ・プログラム》というわけです。

プログラムに仮託されたアルゴリズムが、巨艦なハードウェアと俊足な通信線を身にまとい、市場に参戦する。そこには同類がひしめいており、見えない世界で日々(1000分の1秒単位で)暗闘がくりひろげられている。そんなイメージをしておけば、だいたい合っているでしょう。

「先生、《タフとウブ》についてすこし考えてみたんですが」

質問ですか。なにかメモを手にされて。けっこう時間がかかりそうですね。ちょっと時間がないので次回にお願いできますか。すみませんね。

当社のプログラマが、あるシミュレーションを用意してくれたので紹介します。次回に。

(あもうりんぺい)