あけみくんの宝箱06-炎上

内部監査の基本的な知識を固める部員たち。そこへ突然、戸外から爆発音が聞こえた。なにが起こったのか。

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■06-炎上

4人は全速で煙のほうへ走った。技術部が使っている小さな建屋だ。

ドアノブが熱くなっていないか。中の様子はどうか。一瞬で判断すると、目黒はドアを開けて中に入った。部員のひとりが部屋の隅の消火器を取り上げたところだ。操作にまごついているのを、わきから目黒が手を添えて黄色い安全ピンを引き抜く。

部員と目黒が2人がかりで消火器のノズルを火元に向ける。かなり炎が上がっているが、消火器の泡の勢いのほうが強い。わずかな時間で消火器は空になってしまったようだが、そのときはもう炎はすっかり消えていた。

◆ろ過装置

ひと息ついて、目黒は部員に話しかけた。
「川口くん、けがはないか」
「おかげさまで。爆発のときは隣の部屋にいたもんですから。あの音は昼飯前の腹に響きましたけどね」
息が荒い。

「なにがあったんだ」
川口と呼ばれた若い男ははまだ消火器のノズルを握りしめたまま、ゆっくりとその場にへたりこんだ。

「廃棄する塗料をろ過する装置、これは試作品なんですが」
「よく知っているよ。フィルターにたまった油脂成分が自然発火した。そうだろう」
「たぶん、それだと思います」

「油脂は酸化が進むと勝手に発熱する。熱の逃げ場がないとやがて発火点に達する。近くに溶剤がひと缶あったんで、そこに引火して爆発的に燃えた」
目黒の視線の先には、黒こげになってひし形に変形した金属缶がある。
「けれどもほかに可燃物がなくて、延焼はせずにすんだ。そんなところだな」

◆安全が保てない

研究開発棟からすこし離れたエイジングルームという名の建屋だ。テストする機器を長時間、動作させたままで置いておくため、ふだんあまり人の出入りがない。人的被害が発生しなくて幸いだった。まだほかの者たちは到着していない。

まわりを見ると、玉川あけみはスマートフォンで撮影しながら手帳にメモをとっている。残りの越谷と上野は茫然としている。目黒は3人に向きなおって言葉を継いだ。
「じつはこの事態、予想していました」

「私に言わせてください」と消火器男の川口がさえぎった。
「目黒さんは、この装置の基本設計に反対していたんです。こんなんじゃ安全が保てない。いまに事故を起こすぞって。でも技術部長がとりあってくれなくて、目黒さんを無視したんですね。そのうちに製造部に異動させられて、あげくに監査部に左遷までされて…」
「おいおい左遷じゃないと思うぞ」

そこへ技術部や製造部の人たちが集まってきて、即席の現場検証が始まった。急報を受けた消防車までやってきたが、これはひととおり現場を見て話を聞いてから帰っていった。ずいぶん迷惑をかけたことになる。

◆コスト、業績、ライバル

技術部のメンバーが装置を分解して点検する間、目黒たちは邪魔にならないように距離をおいて眺めていた。玉川あけみが話しかける。
「そんなにまずい設計だったんですか、あの装置」
目黒は技術者の顔になって答える。
「ええ、集塵フィルターの形式を根本から変えればよかったんですが、コストの壁が越えられなくて」

「そんなもんじゃなくて」
まだすぐそばにくっついていた消火器男がさえぎる。まわりに聞こえないよう小声になりながら。
「部長がなんかコストがどうの今年度の業績がなんとか、それにライバル社に負けてたまるかって、そればかりで」

「ゼプニールだな」
「ゼプニール社です。そんな勝ち負けなんてどうでもいいのに。設計会議では目黒さん、体を張って訴えていましたよ、もっと安全策をとろうって。ほかに目黒さんに賛成する人も多かったんですが、部長が怖いんです。ぼくも目黒さんを応援したかったけれど、下っ端だし、設計パラメータの置き方もわからないんで、意見の言いようがなかったんです」

◆ポンプ

火元の装置のまわりで点検作業を眺めていた男の一人がふいに振りむいた。本社の総務から、なにかの用事で工場に来ていた者のようだ。若いのに額の髪がだいぶ後退した細おもての顔を上目遣いにして、目黒に話しかける。
「目黒さん、消火活動したんですってね。ずいぶんお早いお着きで」

「え?」
「いや、目黒さんが言っていたそのとおりになったんでしょ。今回の発火、待っていたように駆けつけてくるとはね」

「なにが言いたいんだよ!」横から反応したのは上野のほうだ。

「世の中にはマッチとポンプを両方使うのがうまい人もいるってことですよ」

上野がその男に殴りかかろうと飛び出したと同時に(上野と男の間にスチールデスクがあったのが幸いだった)玉川あけみの声が響いた。
「謝ってください」

「目黒さんはずっとわたしたちと一緒だったんです。この装置に悪いことをする時間なんてありません。調べもしないで無責任なことを言うのはやめてください」
静かだが凛とした玉川の声に、場が凍りつく。

すこし間をおいて「そうだよきみ、調べもしないで無責任なことを言うのはやめなさい」と越谷が同じようなことを言った。
監査部の4人と消火器の川口、計5人の火のような視線を浴びて、総務の男は口をつぐんだ。

◆技術部開発課川口

点検が終わると、目黒たち4人は監査部の部屋に引き上げた。なぜか川口もついてきて、総勢5人になっている。
「川口くん、なぜここにいる。仕事はいいのか」と目黒。
「16時の打ち合わせまでの間は平気です。今日やることはすべてやってしまいましたから」

「しかしまあ目黒さんがマッチでポンプだなんて、あの総務の人、どうかしてますよ。もしそれができたんなら、時限装置を使った完全犯罪だ。昨晩あたりから仕込んであったはず」
「疑っているのか」
「ぜんっぜん! 目黒さんには、そんなことはぜったいできないし、発想がわきもしないでしょう」
「バカにしているのか」
「ややそれに近い」

(天生臨平)

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あけみくんの宝箱05-ねじとクリップボード

内部監査の目的は《経営目標の効果的な達成に役立つこと》だ。そのためにおこなう経営諸活動の評価、助言と勧告。氷上のターンのように難しげなその課題を、うまく着地させる具体手法はあるのか。書籍の探索が続く。

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■05-ねじとクリップボード

◆三様の監査

「内部監査の定義は大切そうだから、またあとで聞こう。あけみくん、きみはどうだ」

玉川あけみは手元のリモコンを切り替え、自分のパソコンの映像を壁のモニターに映した。

「わたしの見た本は2冊で、その両方に書いてあったことがあります。それは《内部監査は法律でなにも規定がない。そこが会計監査人の監査や監査役の監査と違うところだ》とのことです。」

「監査役や会計監査人は、会社を監視する義務がある。違反すると罰則があるし、株主から訴訟を起こされるリスクも発生する」越谷が応じる。そのへんはしっかり勉強してきている。
「だから会社の安全をしっかり見てくれていて、われわれも安心できるわけだ。ただかれらは法的な責任を問われる立場だ。安全サイドに立って、保守的な判断をしなければいけないときもあるんだね」

「じゃ内部監査は無責任でいい?」と上野。

「いや内部監査人は、経営者に対して業務としての責任を負っているよ。営業や製造と同じようにね。だが法的にはあまり拘束がない立場だから、ときには大胆な提言もしないといけない、ということかもしれないな」

(大胆な提言…)越谷の言葉で、目黒は《助言、勧告、アドバイザリー》という、さっきの定義の一部を思い出した。

◆チェックリスト

玉川あけみのプレゼンが続く。
「ひとつ目の本はチェックリストを使った監査の実務が重点です。もうひとつは不正不祥事に焦点を当てています。チェックリストは簡単にいうと、ルールどおりできているかをマルバツで判定するリストです」

「玉川さん、営業と技術ではリストが変わってきますよね」と目黒。

「はい、業種でも職種でも違います。たとえば建設業なら〔建設業法の第何条に違反していないか〕〔違反しないように毎月確認しているか〕といった百何十もの項目があります。業種ごとにチェックリストの例が出ています」

画面は、製造業、卸売業、小売業などの大分類から、さらに食品製造業、機械製造業など細かな分類までサンプルのチェックリストがあることを示していた。

具体的な話になって上野の顔がほころんできた。目黒は、チェックリストをクリップボードにはさんで現場に行き、「これはどうなってますかぁ?」などと質問している自分をイメージした。使えるかもしれない。

◆リスクアプローチ

「チェックリストは業種ごとに変わるだけではありません。この本では、《リスクを洗い出し、低減すること》を内部監査の重要なテーマにしています。いま監査対象の組織にどんなリスクがあるかでチェックリストが変わってきます」

越谷「リスクアプローチというやつだ。最初に分析して、リスクの程度が高い項目から重点的に確認していく」

上野「リスクって、さっきもちらっと出てきたけど、いまひとつ、なにかな感があるんですが」
玉川「リスクは《結果の不確かさの程度》と定義されています」

目黒「さっきは《上振れリスク》という話が出ましたよね。《予想に反して儲かってしまった》というのもリスクですか」
越谷「定義からいうとそうなるが、リスク管理の世界では《損失を与える危険度》のことを指す、としてもいいようだな」

玉川「この本では《内部監査はリスクを発見して低減するための活動だ》と言い切っています。さっきの目黒さんの話では《経営目標の効果的な達成》から入っていて、かなり違うなと思っていました」
目黒「言っている内容はそれほど違わないにしても、言い回しはずいぶん違うな。これが《法律で決まっていないから自由度が高い》ということですか」
越谷「そういえば別の本で、《経営目標の達成を阻害するリスク》という言い方があった。やはり言っていることはそんなに違わないかもしれない。話の入り口がすこし違うということだろう」

玉川「リスクアプローチの方法では、資料を調べたり、監査対象にインタビューしたりしてリスクを洗っていきます。それをどう《統制》しているか、その統制が有効かを監査で確認します。重要そうな言葉として、リスクマップとかエンタープライズリスクとか満載しているので、あとでまた触れることになると思います」

◆不正不祥事

「もうひとつは不正不祥事の話で、米国の本の翻訳です。リスクのうちのひとつに焦点を当てた形ですね。会社の幹部が粉飾決算をしたといった大きな話から、会計担当者が支払い代金を自分の口座に落としたとか、工場労働者が「ねじ」を1箱ふところに入れた話まで。これを内部監査でどうやって防ぐかを書いてあります」

「あけみちゃん、ほんとにそれ、ねじ1箱の話なの?」解せない顔の上野。
「そんな小さな話がとくに多いですね。こんなに細かく場合分けして監視する必要なんて、ほんとにあるのかと思いました」
「ふうん、多いんだアメリカって、ねじの好きなやつが」

「米国の本、ということだね」と越谷。
「そういえば米国では、ほうっておくと下のほうの職場ですぐに不正が発生する、という話を読んだことがある。統計的に正しいのかは知らないが、すくなくとも米国の管理職はそう思っているらしい。だから不正は《普通にある》のが前提で、管理統制、監視、そして監査をする。だが当社では、そこまでしなくてもいいのかもしれない」

「現場の人たちはまじめですからね」
「そうそう、上にいくほどだらしないし、だいいち働かないんだ」上野が反応する。「一度、上司の手助けしに経営会議ってのに出たことがあるけど、えらい人たちがくちゃくちゃしゃべってるだけで、ぜんぜん働いてなかった」

そこまで言って、ふと上野の顔が曇った。「いまのおれたちも、そうなのかもしれないな。…おれは営業だから、なんでもカネに換算する。こうやってしゃべっているのも、何日もかけて準備しているのも、ぜんぶ会社の給料でやってるんだ。うまく結果が出ればいいけど、そうでなけりゃ、みんなに丸損させていることになる。そうじゃないですか、越谷さん? あれ、なにやってんすか?」

越谷はみんなに背を向けて、なにやら紙をいじっている。ミスコピーを機密とそうでないのに分けて、メモ用紙を作っているらしい。
「上野くんの言うとおりだよ。すこしでも働かないとと思って」
「まじめな話をしているんですよ。内職禁止! だいたい…」

◆黒煙

言い終わらないうちに、ずんっという鈍い音がした。大音響ではないが腹に響くような音。方向や距離は見当がつかない。だがふだん聞いたことのない音だけに、なにか不穏な感覚が立ち上がってくる。顔を見合わせるより早く4人は席を立ち、無言でドアを開けて表に出る。

工場敷地の中心部あたりを見渡すと、ここから案外近い一郭に黒っぽい煙が細く上がっている。爆発か火災、間違いなく非常事態だ。4人はそれを認めると一瞬、立ちすくんだ。たぶん各人が、とっさに判断していたのだろう。状況を確認しにいくべきか、反対方向に逃げたらいいのか、社内放送があるまで待機するのか。

越谷が口を開き始めるのと同時に、玉川あけみが声をあげた。
「見にいきましょう」

「あ、あけみちゃん」
「あけみくん」
「玉川さん…」

言葉を探しながらためらっている3人の男たちに、玉川は宣言した。
「私たちは監査部ですから」

 

(天生臨平)

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