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技術にはなにが詰まっているか -ホンハイ・シャープ買収契約2[技術・卓見編]

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■史上最大の買収先を評価する

シャープの買収は、台湾の産業全体にとって過去最大のM&A案件となる。どこが鴻海精密工業(ホンハイ)の郭台銘会長をそこまで惹きつけたのか。

企業買収案件では、企業価値査定(デューデリジェンス)の作業が行なわれる。会計専門家を始め多数の人員が投入され、詳細な算定がなされる。だが出てくる結果は客観的に正確というほどのものではない。

技術をコア資産とする企業の価値査定は容易でない。全国に物流拠点を持つ流通企業や、店舗網とオペレーションノウハウを有する飲食業などならまだ査定のしようがある。それにくらべて特段の難しさだ。

たとえば現金化(マネタイズ)の進んだ特許資産なら一定の評価尺度があるが、これは技術成果物の小さな一端だ。現行製品それ自体もまた一端にすぎない。

■卓越した経営者だけが知る、技術の底力

技術の中枢部分は、組織内に培われた潜在的な能力(ポテンシャル)だ。それに呼応するかのように、郭台銘会長は「シャープはポテンシャルのある会社」と明言している。氏が強く認識しているのは、ビジネスモデルに翳りを見せているホンハイ自体との対照でもある。

サンヨー白物家電がハイアールに、東芝白物が美的集団に、そしてシャープ全社がホンハイにと傘下入りするにあたり、買収側のアジア各社は競合で値がつり上がることを避け、うまく棲み分けを図っている。正面から競合したら買収価が天井知らずになってしまうほど魅力的な素材だからだ。

「疲弊しつくした日本の電機・電子産業」の、どこがそんなに魅力的なのかと、いぶかる向きもあろう。だが疲弊しているのは経営だけであって、技術と伝統は燦然としている。白紙から追いかけたのでは、なかなか間に合うものではない。

■技術の三層は深い

技術は最低、三層で考える必要がある。(ただしここで、熟練作業者が保持する《高度技能》はまた別軸だ。)

(1)具体製品に直結する個別性の強い技術。設計図や工程手順書に代表される。
(2)応用のきく要素技術や基幹技術。可視化すれば特許、ノウハウ集などになる。その可視化(形式知化)さえうまくいけば、伝承や移転が比較的容易だ。
(3)要素技術やノウハウや製品を産み出す力。開発力、着眼力、企画力。

具体的に見えている部分だけで技術を評価するべきではない。前節からポテンシャルと呼んでいるのは、主に(3)の技術に当たる。

これはすべてが暗黙知というわけではない。一部は明文化され組織内に散在しているのが普通だ。だが基本的には風土と人に浸透しているので、移転するには長期の取り組みが必要だ。

そのポテンシャルは測りがたく、企業価値査定や株価に反映しにくい。その評価は投資家や経営者の予見力、イノベーション能力に委ねられる。

メーカーに蓄積された技術は、何十年にわたる当事者の地道な努力と社会的な投資の結実だ。それがどれだけ大切なものか、多くの日本人や当事者は理解していないように見える。そしてなによりもこの貴重さがわかっているのは、ホンハイを含む台湾・中国・韓国のメーカーたちだ。それが一連の買収劇の起爆点になっている。

■電子立国が遠のく

電機産業はもうダメという議論に「コモディティ化(同質化)してだれでも作れるようになったから」というのがある。たしかに最終製品を組み立てるだけ(つまりホンハイのビジネスモデル)なら、わが国の産業に勝ち目はない。だがそのコモディティを構成するモジュールや素材は、台湾や韓国が台頭しているとはいえ、わが国でもまだ健在だ。

IGZO液晶パネルや有機EL、カメラモジュールなど、コモディティの構成要素としてのシャープの競争力の源泉は数多くある。さらに、それらばかりではない。

たとえば白物家電。

シャープが現時点で販売している「ウォーターオーブンヘルシオ」を作ってみろといわれれば、ホンハイはただちに、もっと安く品質のよいものを作るだろう。だが見たことのない来年・再来年のシャープの調理家電を一から作れといわれたら、できない。

それぐらい基礎研究と製品開発力は身についていない。売上高15兆円、世界最大手の受託生産会社であるホンハイにしてもだ。

シャープも東芝も、安定した高品質の、ときにイノベーティブなアイディアにあふれた家電を産み出し続けている。日本国内では大手がひしめいて個社に規模のメリットがなく、弱体とみなされる白物家電。その中でも小粒なシャープ。それでもこのありさまであり、世界的に見て珍重すべき状況だ。

《一流の技術、劣等な経営》は以前から言われているが、残念なことにいまでも事実だ。すでに指摘したように、日本の多くの企業は首のすげかえ、経営者の交代を必要としている。

技術と伝統を再生させるのに必要な《経営者という資源》が枯渇し、国内で得られないのであれば、てっとりばやく海外に求める。それは正しい道ではある。前に指摘したように、資本の国際化も進めるべきだ。産業は国と国との争い(ばかり)ではない。

だがそれらとは別に、基幹技術の総体を経営権ごとタダで譲り渡した代償は、将来大きく効いてくる。

まとめて言うなら
・シャープの技術と伝統、ブランド
・ホンハイの経営力、シャープの価値を評価した卓見
の、ある意味で理想の組み合わせが今回成立した。世界のモノづくりと社会厚生のためには好ましいことだ。だがそれに終わらない。

・ホンハイに移行したオーナーシップ
のために、買収金額を一桁も二桁も上回る利益を将来のホンハイにもたらし、日本の電機・電子産業にとって脅威が発生する。そしてこれが終始、合法的に行なわれたということだ。(交渉事にはフェアもアンフェアもないと仮定したならば。)

■育む姿勢が問われている

シャープ問題に関する議論は絶えないし、論点もばらついている。その原因は組織への認識、その裏にある技術観にあると見ている。

国際競争に勝てなくなってゾンビ化した企業は「ダメな会社だからつぶしてしまえ」といった意見がSNSなどに散見される。これは会社を経営者と従業員、資本と技術に分けて考えられないラフな発想で、語るに落ちる。

一方で大手メディアの論調では、知らないうちに経営者側の発想に立ち、人間や技術をモノとしか見ていないと思われるものが多くある。モノならば、少々痛くても切り売りも捨て去ることも自在だ。

最近、シャープ買収劇を扱った全国紙朝刊一面のコラムを見た。そこで「人や事業の一部を手放す経営者は身を斬られる思いだろう」といった記述があって、目を疑った。

経営者は従業員の命運と経営資源を預託される存在だ。失敗したら自らがかけた迷惑を詫びて退場し、場合によっては民事・刑事責任まで負うのが本来の姿だ。「自分を安泰な立場に置き、泣いて従業員を斬り捨てる」などという権限自体がそもそもない。それをあるように思っているのが大きな見当違いだ。

技術には、当事者の知恵と労苦と、消費者の激励と社会からの支持と、何十年の営みが詰まっている。この珠玉を捨て去るよりは人に渡したほうがいいし、手元に置いて育んだほうがもっといい。

たくさんの珠玉を、大事にしていけるような世の中であってほしい。

(あもうりんぺい)

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