あけみくんの宝箱10-健全さという視点

内部統制の中核にある「健全」は中長期志向のこと、と結論づけようとしたとき、玉川あけみが口を開く。「すこし待ってください。なにかが足りない気がします」

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■10-健全さという視点

東側の窓から送電線の鉄塔が見える。その先端に残り火のように照り返していた夕陽が消えて、戸外は闇になった。あたりがいっそう静まり、遠くの列車の音が聞こえる。

すこし目をつぶったあと、玉川はゆっくりと話しだす。

「《健全イコール中長期指向》だけなんでしょうか。

悪い部長は、自分の部署の成績は上げたけれど、会社全体としては最初から損をしていました。せっかく育てていた技術を安く売り払ってしまったし、会社の評判も悪くしたのですから、短期志向でも中長期志向でもないですね。
これも《健全さ》に関係あるのではないでしょうか。

…そういえば、わたしも《悪い部長》という名前を使ってしまいました。ごめんなさい、ただ流されただけなのかもしれないのに、悪い部長なんて」
玉川あけみもなぜか、越谷をまっすぐ見ている。

越谷は咳払いをしてから応答する。
「そうだな、あけみくんの話を聞いて、《部分最適と全体最適》という言葉を思い出した。きっとこれに当てはまるな。

組織の一部分だけにとって利益が上がったり効率的になったりすることを部分最適という。部分最適が達成されたからといて、組織全体にとってそれがいいことだとは限らない。正反対のこともある。

悪い部長がやったことは、部署の利益という部分最適ではあるが、会社の利益という全体最適には反している。みんながこんなことをやり始めたら、会社はとんでもなく不健全になってしまうね。組織の健全さを測る、ひとつの材料にしていいだろう」

◆心当たり

目黒は、心の中でつぎつぎ思い当たることがあった。

技術部では、開発の方針で意見がくい違うことがある。いま思えば、管理者はどうしても、目先の利益や部門の成績にこだわりがちだ。さっきまでやり玉にあがっていた大久保や高円寺だけの話ではない。

それではよくない、もっと違う方針を立てなければ、と目黒は発言していた。打ち合わせが紛糾したこともあるが、思いをうまく伝えられなかった。

中長期志向や全体最適なんて、そんな言葉があることも知らなかった。それを知って、考えをうまく整理していれば、話の展開も違ったものになっていただろう。「健全さ」を糸口に、これらが引き出されてきたのは、目黒にとって実感できる収穫だった。

では健全さとは、これだけなのか。なにかが足りない気がする。ほかにもあると思う。

玉川が続ける。
「ほかにもあると思います。
健全じゃないと思うのは、お客さまに商品を無理に売りつけたことです。それにこの商品は質がよくなかった」

「お客さまにずいぶん損をさせた、ってことだね、あけみくん」

「あ、あ、あけみちゃん! おれ、よく人からいわれたことがある。上野さんの口ぐせは『それじゃ、お客のためになんないぞ』ですよねって。知らないうちに言っているんだ。
営業やってると、『商品の弱みはちょっと黙っておこう』とか『こんど新製品が出るんだが、在庫のほうを買わせちゃおう』とか、よくあるんだよ。そういうのがガマンできなくて」

「それは関係あると思いますね、いまの話と」
玉川は、打てば響く満面の笑みだ。

「ところがどこかのバカ課長が、『そんなことよりウチの利益を考えろ。慈善事業やってんじゃないんだから』なんて言うんだ。けっこうケンカしてた」

◆ステークホルダー

「ええ、それに仕入れ先をたたいて無理に安い商品を作らせましたよね。仕入れ先も迷惑したと思います」

「まてよ、お客さまと仕入れ先というと、ステークホルダーか」と越谷がうなった。

「ステークホルダー、ですか」

「そう、組織にとっての利害関係者のこと。組織から利害を受ける人や、組織に利害を与える人だ。お客さま、社員、取引先、株主とか」

「ステークって、肉のステーキのことじゃないですよね」

「地面に打つ杭(くい)だ。昔は杭で敷地を囲って権利を主張した。そのことからきている」

「いま手元のPCで調べたんですが、その杭から由来して、ステークホルダーは掛け金や出資者の意味だった。それが利害関係者という意味にずれていった。どうしてですか」

「どうしてかね。ま、いろいろ都合もあったんだろう」

◆視点

ここまで聞いて、目黒はふと思いついたようにホワイトボードに書き加えた。

短期利益 ←→ 中長期利益 …… 時間軸の視点
部分最適 ←→ 全体最適 …… 組織内の視点
お客さまや取引先の不利益 ←→ ステークホルダーの便益確保 …… 関係先の視点

図を見て越谷が言った。「目黒くん、そのポチポチの右のところの意味を教えてくれ」

「短期利益だけじゃなくて中長期利益も大切、というのは短期・長期という《時間の流れ》に沿った話ですね。
《部分最適より全体最適》は会社内部の話です。お客さまや仕入れ先が出てくると、こんどは会社の内側と外側の関係という話になる。
時間軸、内部、外部、それぞれの視点から《健全さ》を見ていることになりませんか」

「ははあ、いままでの話って、こういうことだったんだ」

短い沈黙が流れ、4人はふと顔を見合わせた。
なにかがつかめそうだ。

すでに、どの書籍にも書いていない独自の道に入りこんでる。この先いっそう鮮明に、ひとつの世界が見えてくるだろう。そんな予感がある。

「まてよ、会社の外側にもうひとつある。ステークホルダーだけじゃないぞ」
越谷だ。いつもの落ち着かない、管理者らしい目配りとは違って、集中した目をしている。

「それはな、《社会》だ」

3人の部員は肯定的なうなずきを返した。とくに論拠があるわけではないのだが、《組織の健全性》の内訳が、これで完結しそうな気がする。中長期志向、全体最適、ステークホルダー便益ときて、最後に社会性が加わった。

この《社会性》について、どんな論拠が語られるのか。おもわず一同、彼を見つめる。

すこしの沈黙のあとで、越谷は口を開いた。

「だがもう終業時間だ。明日にしよう。いろいろ都合もあるしな」

(天生臨平)

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あけみくんの宝箱09-内部統制に明るく向き合う

技術部のマネジメントに問題があることは明らかになってきた。監査部の4人は、内部監査の組み立てを急ぐ。

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■09-内部統制に明るく向き合う

川口の目が真剣さを増す。「これは内部監査で取り上げていただけるような話じゃないでしょうか。大久保さんの件も、高円寺さんの件も」

「そうだな」と越谷がまた腕組みする。「いますぐにはまだ、あれだが、そのうちに検討してだな、いろいろ都合もあるし…」

「急いだほうがいいと思いますが」と目黒。「社長が知らない話なら、すぐにでも報告したいですね」

「ああ。ただ、『現場からこういう話が聞こえました』だけでは説得力がないわなあ」

「それでは、資料集めから入ったらどうでしょう。打ち合わせの議事録とか」

「わかったよ目黒くん。それでは川口くん、船橋さん、なにか証拠になる資料を集めてください。打ち合わせの議事メモや、企画書、企画の検証資料といったやつを」
やっかいなことがすこし先送りになったせいか、越谷はなにかほっとしたような口調だ。

◆チャンス

「でも大久保さんと高円寺さんは、言っていることが正反対な気がするぞ」と上野が無精ひげをなでる。
「片方はイケイケどんどんで、安全なんかいいからさっさと作って売れ、だ。もう一方は難癖つけて作らせないようにする。二人は衝突したりしないのかね」

「けっこう仲よしで、よく一緒にゴルフに行ったりしています」

「わからんもんだな。なにが気に入って仲よしなんだか」

目黒が技術部からすこし目を離したすきにそんな変化が起きているとは知らなかった。現場の人たちはどんなに苦労しているんだろう。

すこし考えこんでいると、上野が「大丈夫なのか、この会社」とつぶやく。越谷は気が抜けた表情で天井を見ている。いままで窮状を訴えていた技術部の川口と船橋も、暗い表情で押し黙っている。

「チャンスですね」

玉川あけみの声だ。
「改善しないといけない点を、お二人が教えてくれました。しかもまだ兆候のうちから。
悪い部長の話で出ていましたね、《誠実な営業》や《顧客満足》。内部監査の定義にあった《経営目標の達成》。みんなまとめて貢献するチャンスです。わくわくしてきました」

底抜けに明るい玉川の表情を、監査部のメンバーはあらためて見なおす。

「あ、あけみちゃん」
「あけみくん」
「玉川さん…」

◆内部統制

夕空の色が夏のきざしを帯びて、空気がふんわり暖かくなった。技術部の川口と船橋は職場に引き上げていく。

玉川あけみの前向きな発言を聞いて、腰が重い越谷も負けていられないと思ったのか、すこし声を張って宣言する。
「わかった。船橋さんたちの調査と並行して、監査の段取りを一気にまとめあげよう。その結果によっては、第一回の監査対象は技術部のマネジメントだ」

ぼや騒ぎから半日、仕事がなにも進んでいなかった。

「今日はまだ時間があるから、監査の整理の続きだ」
越谷がメンバーをひとりひとり見渡すと、目黒の手が挙がった。

「では、ひとつ詰めておきたい話があります。いままで手をつけてこなかった《内部統制》というテーマです。どの書籍にも《COSOキューブ》やその日本版が出ていたと思います」

一同、うなずく。キューブの図には見覚えがある。

「さっき玉川さんが言っていましたね。《内部監査の目的と実践が結び付かない》と。これが、つなげるヒントになるかもしれません」

◆ふたたび内部監査とは?

壁のモニタに文字が浮かぶ。
「書籍によっては《内部監査は、内部統制の状況を確認し、向上させるもの》という定義があるぐらいですから」

「また内部監査の定義が出てきた」
上野は、しぶいお茶をすすったときのような顔。「こんなんで話が進むのかよ」

それをきっかけに、めいめいが、いままで出てきた定義を口にする。

「最初に越谷さんから聞いたときは《会社がうまくまわっているかを確認することだ》」
「内部監査協会の話のときは《経営目標の効果的な達成に役立つために保証や助言をする》」
「書籍によっては《リスクを発見して低減する》」
「そしていま《内部統制の状況を確認する》。なんでもありみたいですね」

玉川あけみはさっきから、わくわく顔のままだ。こういう混沌とした状況が好きらしい。目黒はふと心の中で自答していた。(ぼくも混沌が好きだ。そこから課題のタネを引き出して、技術で解決する。その混沌のつらさが好きだ)

◆意外にわかっていない内部統制

「だったらその内部統制って、なんなのよ」と上野。

基礎的な用語の話になると、みんなの視線が自然に部長の越谷のほうを向く。

「内部統制か、なんなのだろうね」

「え、越谷さん、知らないんすか」

「総務や法務の連中の口からもよく出てくるし、わたしも会話で使っている。でも正確になにかと聞かれたら、うまく答えられない」
今日の越谷はわりと謙虚なようだ。ホセ・ムヒカさんの記事でも見たのかもしれない。目黒はパワーポイントのページをめくった。

◆内部統制は業務の適正を図ること

「こんな定義があるようです。《内部統制とは、業務の適正を図る行為のこと》。そして《業務の適正とは、違法行為や不正、ミスやエラーなどがおこなわれることなく、組織が健全かつ有効・効率的に運営されるよう各業務で所定の基準や手続きを定め、それに基づいて管理・監視・保証をおこなうこと》」

「その《業務の適正とは》ってのが、長くてよくわかんないんだけど」

「上野がそう言うと思って、こんなふうに言い換えてみました」

・内部統制とは、業務の適正を図るために各業務で所定の基準や手続きを定め、それに基づいて管理・監視・保証をおこなうこと。
⇒内部統制とは、業務の適正を図ること。

・業務の適正とは、違法行為や不正、ミスやエラーなどがおこなわれることなく、組織が健全かつ有効・効率的に運用されること。
⇒業務の適正とは、健全かつ有効・効率的な運用のこと。

こんどはみんなの視線が上野の顔を向く。
「すこし、…わかりやすい」

◆そして「健全」が登場

目黒が続ける。「《業務の適正》は、悪い部長の話でも出てきました。そこで、ちょっとひっかかったのが《健全》です。どんな意味なんでしょう」

「よくわからないけど、このあいだの悪い部長のやりかたは、健全ではなかったんだろうな」上野はそれなりにカンがいいのか、世間の定義と社長の訓話を重ねて、折り合う点を探しているらしい。
「最初は儲かったが、会社の信用をどんどんなくしていって、客離れ加速。これってとても健全でない感じがする」

上野は越谷部長に、あわれむような視線を注いでいる。上野がイメージする悪い部長の姿。その首の上に、越谷の顔がくっついているのは、もう変えようのないことのようだ。

「短期はいいけど中長期でダメになる。これが健全でないってことだな。納得したぞ。上野くんもたまにいいことをいう。さっきの目線は気に入らないが」と越谷。

目黒は画面に書き加える。「健全=中長期指向」

「すこし待ってください。なにかが足りない気がします」
玉川あけみだ。

(天生臨平)

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ナッツ・リターン 自分満足が引き起こした悲劇に判決

「あんた、ナッツじゃないの!?」

と英語で言えば、「頭がおかしい」「ばかげている」という意味だ。由来不明だが、木の実が小さく硬いところから、「こり固まったバカ」といったイメージによるのかもしれない。

そういう含意で名付けられた「ナッツ・リターン事件」はだいぶ前のことだが、記憶されているだろうか。このたび(2017年12月)韓国の最高裁で結審し、大韓航空の副社長だったチョ・ヒョナ被告は懲役10カ月の執行猶予付き有罪が確定した。

■ナッツ・リターンとは

2014年12月、チョ副社長は大韓航空機にファーストクラス乗客として搭乗していた。

客室乗務員が提供したマカダミアナッツが皿に盛りつけられておらず、袋のままだったことに激怒し、チーフパーサーを飛行機から降ろすことを要求。地上走行中だった同機の進路を変更させ、運行が遅延した。

このため航空保安法違反等に問われ、一審では懲役1年の実刑判決が言い渡されていた。

■発端はささいなできごと、なのか

会社側の対応も悪かった。ナッツ姫ことチョ副社長をかばうため証拠隠滅や関係者の懐柔を図り、社内から逮捕者も出た。

報道ではしばしば「ナッツの出し方という実にささいなできごと」とされて発端部分がスルーされる。その後の会社側の対応にからめて「危機管理の甘さ」や「財閥一族の傲慢」に論を進めることが多かった。

もちろんそれらも大切なのだが、当サイトではそうしなくて、「ナッツの出し方というささいなできごと」に着目する。

「この私に対して、皿に盛りつけるどころか、袋の封も切らずにナッツを差し出すとは!」といった感情であったろう。それは怒りを脇に置けば、事実としてCS(顧客満足)に関する気づきだったはずだ。

飲食物は食べやすい状態で提供したほうが乗客にとって快適だ。袋のままよりも、最初から盛り付けてあったほうが気分がいいに決まっている。

乗務員の手間というコストを考え合わせると、ファーストクラスとエコノミーではやり方が違っていてもいい。サービスのレベルで料金を変えているのだから、当然のことだ。

だいいちセレブは、樹脂の袋を小器用に破って中身をこぼさずに取り出すような能力が退化しているのが普通だ。(電気ドリルとグル―ガンを人生の友とする森泉さんは別だろうが。)

■怒る前にやることがある

チョ氏は怒り狂うかわりに、こんなふうに対応してもよかった。
ふとした気づきによって、旅行後にさっそく顧客満足の担当役員を呼び出して質問する。

・この客室乗務員の行為はマニュアルどおりだったのか。(後の報道によると、そのとおりらしい。)

・そうだとすると、このマニュアルの定めに再考の余地はないのか。

・ナッツに限らず、顧客満足に関する仕組みの整備に問題はなかったか。

・多少のうっかりやマニュアル不備があっても、顧客に尽くす思いがあれば満足は得られるはず。そのへんのマインド醸成はどうなっているか。

機会を捉えてこうしたやりとりを続けることで、業務の改善が進み、事業も安泰になる。ネタはナッツのかけらと同じぐらい、日常にころがっている。ナッツ姫は、そのささいなチャンスを逃した。

それだけではない。複数の客室乗務員に深い心の傷を負わせ、飛行機運行の遅延という、大きな《顧客不満足》を引き起こす結果になった。もともと顧客満足よりも自分満足だけが視野にあったのかもしれない。

こり固まった木の実のような自分第一主義が引き起こした悲劇。
ナッツ・リターンという言葉は「改善のチャンスを目の前にしながら、基本姿勢が悪いためにそれが見えず、顧客不満足と従業員不満足を起こし、評判まで悪くしてしまうこと」として心に刻まれた。

すべての当事者の更生を願う。

(天生臨平)

あけみくんの宝箱08-困った二人

業績を上げろと部員を締め上げる技術部長。そして技術部にはもうひとり、困った人がいるという。

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■08-困った二人

「まずは大久保さんの話だ」越谷が続ける。

技術部長の大久保は生え抜きの技術部員だ。半年前、先代の社長の時代に部長に抜擢されたが、たいして技術的な実績のない大久保がなぜ部長? というひそかな声があがっていた。

「なんでも業績ばかり追いかけて、ライバルのことも気にして、それで現場を混乱させた。そうだな川口くん」

「ええ。決算の2週間前に、『もっと数字がよくならないのか』とか言いだすんです。開発や製造で巻き返すことなんて不可能な時期にですよ」

「それは粉飾決算しろということだぞ」

「さすがに技術部ではそんな数値操作はできないとつっぱねましたが。もちろん経理部でも、です」

◆大物登場

「そんなことがあったのか…。それでもうひとり、違う形で困った人とは?」

「はい。ほかでもない製作本部長です」
川口は、ちょっと思いつめた表情で訴えた。

「おいおい、大久保部長も、その上の高円寺本部長も、両方問題ありってことか」

製作本部長は技術部、製造部、品質管理部の三部を統括する。半年ほど前、これも先代社長の政権末期に就任した高円寺は、一部上場メーカーの管理畑からの転籍者だ。

目黒は半年前、つまり高円寺が当社にやってきたころに技術部から製造部に移った。いずれにしても高円寺は上司筋に当たるのだが、ルーティンワークの多い製造部ではあまりその影響力が及ぶことはなく、彼がどんな人物なのかもよく知らなかった。

「で、高円寺さんがなんだって」

「仕事をさせてくれないんです」

「え?」

そこへ川口の携帯で着信音が鳴った。

「うん、いま監査部だ。…あ、船橋さん、すこしこっちへ来ないか」

◆仕事をさせない上司

ノックの音がして、扉の間から若い女性の顔がのぞいた。

技術スタッフ用のグレイのジャケットに、自前のものらしい濃紅色のリボンと白いブラウスをのぞかせている。知的な顔立ちに、力強い視線が印象的だ。その目元がやわらかい弓形に変わり、笑みがこぼれた。

「こんにちは、船橋理央です」
玉川あけみとは顔見知りらしく、さかんにアイコンタクトを送りあっている。

「船橋さん、さっそくだけどきみたちのボツ企画について話してくれないか」
川口が切り出す。

なんとなく話の内容を察したのか、あらたまった顔の越谷が注釈を入れる。
「船橋さん、でしたな。わたしたちには守秘義務があります。調査権も、閲覧権も聴聞権もある」
すこし棒読み口調だし、聞いただけではなんの話かよくわからない。
「だからなんでも包み隠さず、話してみてください」

船橋理央は、会釈すると話し始めた。

◆企画が通らない

「当社が企画優位の会社だということはみなさんご存じでしょう」

当社、すなわち千堂工学には消費者向けの商品がない。業務用の機器や機能部品、それに少量生産の高機能素材を作っている、いわゆるBtoBのメーカーだ。大発明というわけではないが、あまり市場になかった種類の製品を企画し、すばやく製品化して供給することを得意としている。

「3つの開発チームがあって、競い合うようにして企画を打ち出していました。合同の飲み会をよく開くような、いいライバル関係なんですよ。それはいまでも続いています。だけど…」

船橋はすこし顔を曇らせて息をついだ。

「企画が通らなくなったんです。『各社のノズルを他社のベースボードに固定できるポリカーボネート台座』はだめ。『エンベッド用の超小型熱交換部品』もだめ。『多重ピッチの部品実装ができる汎用アセンブリ基板』もだめ」

◆いくら儲かるんだ

上野の目が宙を泳いだ。営業として自分が担当した製品ならわかるが、まだ企画段階のものについてはイメージしにくいらしい。

越谷もほとんど労務や総務で過ごしてきて、いまの話が理解できるとは思われないが、そこは年の功か、落ち着きはらっている。
「なぜその、企画が通らなくなったのだろうか」

「企画が上がっていって、本部長のところまでいくと、そこでつぶれるんです。『製品はいつできあがるのか。企画どおりに売れるのか。いくら儲かるんだ。欠陥品でクレームがついたりしないだろうな』などと言って」

川口がつけ加える。「本部長の企画承認を取ったら、技術的な検証もするし、マーケティング調査もします。だけどその前に、『準備が足りていないようだな』みたいな話になってダメが出るんです」

「しかたがないので検証に着手してから持っていくようにしたんですが、それでもいろんな理由をつけてダメ。たとえば『もっと儲かる話を持ってこい』とか『こいつはクレームがこわいな』とか」

◆オレに責任が来る

「そのクレームの話がまた、たいへんで」川口が引き継ぐ。
「目黒さんも安全第一ですが、それとは違うんです。高円寺さんの言い方は『こいつが事故でも起こしてみろ。会社の評判は悪くなるし、賠償金や訴訟費用がかかるし、結局のところ責任がオレに来ちゃうんだよ』になってしまう。

目黒さんみたいに『最終消費者のお客さまがケガしたところを想像してみろ』のようなことは言わない。『オレに責任が来るんだ』ばかりで、お客さまのことが眼に入っていないみたいです」

「アウトオブ眼中、ってやつか」と上野。

「おかしいでしょう、こんなことって。わたしも川口さんも、ものづくりが好きで、それを長いあいだ勉強して、会社に入ったんです。でもなにも作らせてもらえない」

◆つるつるの壁

目黒は、社歴のほとんどを過ごしてきた製品開発の現場を、まさに昨日のことのように思い起こしていた。

つるつるの壁をよじ登るような苦しさで、なにもないところから課題を見つけ出す。解決策を構想する。具体的なモノが形づくられていく。試作品が思ったとおりに動いたときの喜び。

テストマーケティングで顧客に見せて、こっぴどく叩かれる。チームの知恵を集めて工夫する。そうして仕上がったモノを製造にかけ、出荷するときの喜び。

エンジニアが味わったそんな苦楽を背に、製品は世に出て役に立つ。会社も潤う。それが支えでこれまでやってきた。

そんな過程が、途中で断ち切られたらどうだろう。苦労だけが残ってなにも報われなかったら、どんな気持ちになるか。断ち切るのに正当な理由があれば文句はないのだが。

「越谷さん、これは大問題のようですね」
冷静を売りにしているはずが、すこし声がかすれた。

(天生臨平)

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あけみくんの宝箱07-どこにも載っていない道

ぼや騒ぎは一段落した。だが原因解明はこれからだ。監査部のメンバーは職場に戻る。内部監査の実行に向けた、期待と迷いを胸に。

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■07-どこにも載っていない道

西日に薄い雲がかかり、空気が冷えてきた。すこし開いたガラス窓からメジロの軽い鳴き声が聞こえてくる。

越谷に本社から電話連絡が来た。事故の原因や再発防止について、技術部を中心とした委員会を作って調査に入るそうだ。監査部はたまたま早く現場に着いたという縁があるので、見聞した情報の提供などをしながら様子を見守ることになった。

「世が世なら監査部も調査委員会の中心メンバーになっていたかもしれないな。だがなにしろまだ温めている最中で、孵化もしていない監査部なんだから」は越谷の弁。

「さあそれじゃ、内部監査の組み立てを続けよう…
とはいえ、もうだいぶまとまったような気がする。内部監査の定義、チェックリスト、リスクとリスクアプローチ、不正不祥事の防止。
どうだ。そろそろ具体的な段取りを決めて、監査にとりかかるとするか」
越谷は管理職らしく、仕事を次のステージに持ち込む意向を示した。

「そうですよねー、これ以上やっても煮詰まってくるだけだし」
上野が賛同した。

「よしそれじゃ、いまの会社のリスクや不正不祥事の可能性についてまとめよう。そのあとでチェックリスト作成だ。まず目黒くんはリスクを…」

目黒はなにか引っかかるものを感じた。このまま監査に突入するのがいいのかどうか、あいまいな気持ちのままで言葉を探そうとしていたとき、玉川あけみが口を開いた。

「すこし待ってください。なにかが足りない気がします」

なにかが足りない?
一同、玉川のほうに向きなおる。

◆道がつながらない

「内部監査の定義は大きい話ですが、そのあとのチェックリストから先は急に、具体的な手法の話になります。このふたつが、うまくつながっていないように思います。

越谷部長が社長から聞いてきたことがありますよね。《業務の適正》という言葉や、短期利益にこだわった部長の話。内部監査で《会社をよくする》という目的のこと。

あのお話のときは、なにか期待に胸がふくらむ感じがしていました。《誠実な営業》や《顧客満足》。そして内部監査の定義のところでは《経営目標の達成》でしょう。わたしたちの働きが、直接に会社をよくすることができるかもしれない、そんな期待です。

こういったものは、いままでまとめた監査の段取りの話には結びついていません。これをなんとかつなげないと、社長の意図から外れたことをしてしまうのではないでしょうか」

こんな話をするときいつも、玉川あけみはまるで友達とショッピングに行って、このオフホワイトのジャケットいいよね、でも、かすかに藤色がかっていればもっといいかも、というときみたいな、なにか楽しげな話しぶりをする。これでぼくたちのチームの雰囲気、ずいぶん助かっているんだろうな、と目黒は思った。

「うーんそうか。不正をなくすというのも会社をよくすることだが、それだけじゃないしな」

「それに、与えられた1カ月という準備期間がやはり気になります。いままだ5日間しかたっていません。もっと考えなさい、社長はそうおっしゃっているような気がします」

越谷は、深く腕組みをしていた手をほどいて言った。「そうだな。もうすこし整理してみるか」

◆手づくりの領域へ

「気になっていたんですが」と目黒。「内部監査がどうやって経営目標の達成に貢献するのか。わたしもいろいろ探ってはいました。でも糸口がつかめないんです。なにかの届け出を忘れて役所から叱られるのを防いだり、ねじ1箱の不正を摘発したりでも、確かに経営に役立つには違いないんですが」

玉川あけみが静かに応じる。「それだけではなくて、もっと経営に直結した課題がありそうです。でも内部監査でそこまで行くにはどうするか。いままで追加で買ってきた20冊以上の書籍にもウェブサイトにも、どこにも答がありません。
抽象的には、きれいなことがたくさん書かれていても、具体的につながる道がないんです。ここから先、書籍に載っていないような、なにかを…」

いつもの「このジャケット素敵よね口調」だが、一転して玉川は3人を正面から見た。

「わたしたちが素手でこしらえあげるしか、ないようですね」

優し気な玉川の目に挑戦的な光が宿った。メンバーは思わず息をのむ。

「あ、あけみちゃん」
「あけみくん」
「玉川さん…」

◆監査部への相談

「…いいなあ」

つぶやき声が聞こえた。技術部の川口だ。さっきの事故現場から4人についてきて、そのまま部屋の隅のパイプ椅子におさまっていたらしい。

「なんだきみ、まだいたのか」

「まだ、ってひどいな。それより、とてもいい雰囲気なのでおどろきました」

「雰囲気?」

「ええ、最初は部屋が快適なせいかと思いました。こんなに窓がひろびろとしていて、緑も見渡せる。それに窓がこう直角に合わさって、船のへさきのようじゃないですか。監査の海に乗り出すぞ、みたいな」

川口が入社して技術部に配属になったときは、すでにこの旧研究棟は使われなくなっていたので、足を踏み入れるのは初めてらしい。

「でもそんなもんじゃない。みなさんがまっすぐな気持ちで、一所懸命なせいだったんですね。この雰囲気のよさは。うらやましいです」

「うらやましいって…」

川口はすこし表情を硬くすると、目黒たちに向きなおった。
「じつは監査部のみなさんに相談したいことがありました。発足したらすぐにと思っていたんですが、あんな出会いになってしまって」

消火器のノズルを握りしめたまま床にへたりこむ川口の姿がフラッシュバックする。

「よし、聞かせてもらおうか」と越谷。

◆技術部の部長ともう一人

「最近、技術部の空気がよくないんです。なんかきゅうくつになってしまって。技術屋集団だから、もともとは物づくり一直線で、ちょうどこの監査部みたいな雰囲気でした。ところが部長が業績のことばかり言うようになってから、ぎくしゃくしてきています」

目黒は技術部から製造部に移ってから半年で、新規発足の監査部に異動した。その間の技術部の状況は、うわさ話としては聞くけれど、あまり実感をもっていなかった。

「このあいだの、悪い部長といい部長の話と似てきたみたいだな」上野が浮かない顔になる。

「悪い部長と?」

「そうだ。越谷さんがよその会社で部長をしていたときに、手抜きで大儲けして、大ひんしゅくを買った話だ」

「ち、違う。知らない部長の話だ…」越谷が声をしぼり出す。

「手抜きで大儲けですか。似ていますね。でもそれだけじゃないんです。こんどはもう一人、もっと違う形で、ひどい人が出てきてしまいましてね」

「違う形でひどい人?」

 

(天生臨平)

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あけみくんの宝箱06-炎上

内部監査の基本的な知識を固める部員たち。そこへ突然、戸外から爆発音が聞こえた。なにが起こったのか。

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■06-炎上

4人は全速で煙のほうへ走った。技術部が使っている小さな建屋だ。

ドアノブが熱くなっていないか。中の様子はどうか。一瞬で判断すると、目黒はドアを開けて中に入った。部員のひとりが部屋の隅の消火器を取り上げたところだ。操作にまごついているのを、わきから目黒が手を添えて黄色い安全ピンを引き抜く。

部員と目黒が2人がかりで消火器のノズルを火元に向ける。かなり炎が上がっているが、消火器の泡の勢いのほうが強い。わずかな時間で消火器は空になってしまったようだが、そのときはもう炎はすっかり消えていた。

◆ろ過装置

ひと息ついて、目黒は部員に話しかけた。
「川口くん、けがはないか」
「おかげさまで。爆発のときは隣の部屋にいたもんですから。あの音は昼飯前の腹に響きましたけどね」
息が荒い。

「なにがあったんだ」
川口と呼ばれた若い男ははまだ消火器のノズルを握りしめたまま、ゆっくりとその場にへたりこんだ。

「廃棄する塗料をろ過する装置、これは試作品なんですが」
「よく知っているよ。フィルターにたまった油脂成分が自然発火した。そうだろう」
「たぶん、それだと思います」

「油脂は酸化が進むと勝手に発熱する。熱の逃げ場がないとやがて発火点に達する。近くに溶剤がひと缶あったんで、そこに引火して爆発的に燃えた」
目黒の視線の先には、黒こげになってひし形に変形した金属缶がある。
「けれどもほかに可燃物がなくて、延焼はせずにすんだ。そんなところだな」

◆安全が保てない

研究開発棟からすこし離れたエイジングルームという名の建屋だ。テストする機器を長時間、動作させたままで置いておくため、ふだんあまり人の出入りがない。人的被害が発生しなくて幸いだった。まだほかの者たちは到着していない。

まわりを見ると、玉川あけみはスマートフォンで撮影しながら手帳にメモをとっている。残りの越谷と上野は茫然としている。目黒は3人に向きなおって言葉を継いだ。
「じつはこの事態、予想していました」

「私に言わせてください」と消火器男の川口がさえぎった。
「目黒さんは、この装置の基本設計に反対していたんです。こんなんじゃ安全が保てない。いまに事故を起こすぞって。でも技術部長がとりあってくれなくて、目黒さんを無視したんですね。そのうちに製造部に異動させられて、あげくに監査部に左遷までされて…」
「おいおい左遷じゃないと思うぞ」

そこへ技術部や製造部の人たちが集まってきて、即席の現場検証が始まった。急報を受けた消防車までやってきたが、これはひととおり現場を見て話を聞いてから帰っていった。ずいぶん迷惑をかけたことになる。

◆コスト、業績、ライバル

技術部のメンバーが装置を分解して点検する間、目黒たちは邪魔にならないように距離をおいて眺めていた。玉川あけみが話しかける。
「そんなにまずい設計だったんですか、あの装置」
目黒は技術者の顔になって答える。
「ええ、集塵フィルターの形式を根本から変えればよかったんですが、コストの壁が越えられなくて」

「そんなもんじゃなくて」
まだすぐそばにくっついていた消火器男がさえぎる。まわりに聞こえないよう小声になりながら。
「部長がなんかコストがどうの今年度の業績がなんとか、それにライバル社に負けてたまるかって、そればかりで」

「ゼプニールだな」
「ゼプニール社です。そんな勝ち負けなんてどうでもいいのに。設計会議では目黒さん、体を張って訴えていましたよ、もっと安全策をとろうって。ほかに目黒さんに賛成する人も多かったんですが、部長が怖いんです。ぼくも目黒さんを応援したかったけれど、下っ端だし、設計パラメータの置き方もわからないんで、意見の言いようがなかったんです」

◆ポンプ

火元の装置のまわりで点検作業を眺めていた男の一人がふいに振りむいた。本社の総務から、なにかの用事で工場に来ていた者のようだ。若いのに額の髪がだいぶ後退した細おもての顔を上目遣いにして、目黒に話しかける。
「目黒さん、消火活動したんですってね。ずいぶんお早いお着きで」

「え?」
「いや、目黒さんが言っていたそのとおりになったんでしょ。今回の発火、待っていたように駆けつけてくるとはね」

「なにが言いたいんだよ!」横から反応したのは上野のほうだ。

「世の中にはマッチとポンプを両方使うのがうまい人もいるってことですよ」

上野がその男に殴りかかろうと飛び出したと同時に(上野と男の間にスチールデスクがあったのが幸いだった)玉川あけみの声が響いた。
「謝ってください」

「目黒さんはずっとわたしたちと一緒だったんです。この装置に悪いことをする時間なんてありません。調べもしないで無責任なことを言うのはやめてください」
静かだが凛とした玉川の声に、場が凍りつく。

すこし間をおいて「そうだよきみ、調べもしないで無責任なことを言うのはやめなさい」と越谷が同じようなことを言った。
監査部の4人と消火器の川口、計5人の火のような視線を浴びて、総務の男は口をつぐんだ。

◆技術部開発課川口

点検が終わると、目黒たち4人は監査部の部屋に引き上げた。なぜか川口もついてきて、総勢5人になっている。
「川口くん、なぜここにいる。仕事はいいのか」と目黒。
「16時の打ち合わせまでの間は平気です。今日やることはすべてやってしまいましたから」

「しかしまあ目黒さんがマッチでポンプだなんて、あの総務の人、どうかしてますよ。もしそれができたんなら、時限装置を使った完全犯罪だ。昨晩あたりから仕込んであったはず」
「疑っているのか」
「ぜんっぜん! 目黒さんには、そんなことはぜったいできないし、発想がわきもしないでしょう」
「バカにしているのか」
「ややそれに近い」

(天生臨平)

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あけみくんの宝箱05-ねじとクリップボード

内部監査の目的は《経営目標の効果的な達成に役立つこと》だ。そのためにおこなう経営諸活動の評価、助言と勧告。氷上のターンのように難しげなその課題を、うまく着地させる具体手法はあるのか。書籍の探索が続く。

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■05-ねじとクリップボード

◆三様の監査

「内部監査の定義は大切そうだから、またあとで聞こう。あけみくん、きみはどうだ」

玉川あけみは手元のリモコンを切り替え、自分のパソコンの映像を壁のモニターに映した。

「わたしの見た本は2冊で、その両方に書いてあったことがあります。それは《内部監査は法律でなにも規定がない。そこが会計監査人の監査や監査役の監査と違うところだ》とのことです。」

「監査役や会計監査人は、会社を監視する義務がある。違反すると罰則があるし、株主から訴訟を起こされるリスクも発生する」越谷が応じる。そのへんはしっかり勉強してきている。
「だから会社の安全をしっかり見てくれていて、われわれも安心できるわけだ。ただかれらは法的な責任を問われる立場だ。安全サイドに立って、保守的な判断をしなければいけないときもあるんだね」

「じゃ内部監査は無責任でいい?」と上野。

「いや内部監査人は、経営者に対して業務としての責任を負っているよ。営業や製造と同じようにね。だが法的にはあまり拘束がない立場だから、ときには大胆な提言もしないといけない、ということかもしれないな」

(大胆な提言…)越谷の言葉で、目黒は《助言、勧告、アドバイザリー》という、さっきの定義の一部を思い出した。

◆チェックリスト

玉川あけみのプレゼンが続く。
「ひとつ目の本はチェックリストを使った監査の実務が重点です。もうひとつは不正不祥事に焦点を当てています。チェックリストは簡単にいうと、ルールどおりできているかをマルバツで判定するリストです」

「玉川さん、営業と技術ではリストが変わってきますよね」と目黒。

「はい、業種でも職種でも違います。たとえば建設業なら〔建設業法の第何条に違反していないか〕〔違反しないように毎月確認しているか〕といった百何十もの項目があります。業種ごとにチェックリストの例が出ています」

画面は、製造業、卸売業、小売業などの大分類から、さらに食品製造業、機械製造業など細かな分類までサンプルのチェックリストがあることを示していた。

具体的な話になって上野の顔がほころんできた。目黒は、チェックリストをクリップボードにはさんで現場に行き、「これはどうなってますかぁ?」などと質問している自分をイメージした。使えるかもしれない。

◆リスクアプローチ

「チェックリストは業種ごとに変わるだけではありません。この本では、《リスクを洗い出し、低減すること》を内部監査の重要なテーマにしています。いま監査対象の組織にどんなリスクがあるかでチェックリストが変わってきます」

越谷「リスクアプローチというやつだ。最初に分析して、リスクの程度が高い項目から重点的に確認していく」

上野「リスクって、さっきもちらっと出てきたけど、いまひとつ、なにかな感があるんですが」
玉川「リスクは《結果の不確かさの程度》と定義されています」

目黒「さっきは《上振れリスク》という話が出ましたよね。《予想に反して儲かってしまった》というのもリスクですか」
越谷「定義からいうとそうなるが、リスク管理の世界では《損失を与える危険度》のことを指す、としてもいいようだな」

玉川「この本では《内部監査はリスクを発見して低減するための活動だ》と言い切っています。さっきの目黒さんの話では《経営目標の効果的な達成》から入っていて、かなり違うなと思っていました」
目黒「言っている内容はそれほど違わないにしても、言い回しはずいぶん違うな。これが《法律で決まっていないから自由度が高い》ということですか」
越谷「そういえば別の本で、《経営目標の達成を阻害するリスク》という言い方があった。やはり言っていることはそんなに違わないかもしれない。話の入り口がすこし違うということだろう」

玉川「リスクアプローチの方法では、資料を調べたり、監査対象にインタビューしたりしてリスクを洗っていきます。それをどう《統制》しているか、その統制が有効かを監査で確認します。重要そうな言葉として、リスクマップとかエンタープライズリスクとか満載しているので、あとでまた触れることになると思います」

◆不正不祥事

「もうひとつは不正不祥事の話で、米国の本の翻訳です。リスクのうちのひとつに焦点を当てた形ですね。会社の幹部が粉飾決算をしたといった大きな話から、会計担当者が支払い代金を自分の口座に落としたとか、工場労働者が「ねじ」を1箱ふところに入れた話まで。これを内部監査でどうやって防ぐかを書いてあります」

「あけみちゃん、ほんとにそれ、ねじ1箱の話なの?」解せない顔の上野。
「そんな小さな話がとくに多いですね。こんなに細かく場合分けして監視する必要なんて、ほんとにあるのかと思いました」
「ふうん、多いんだアメリカって、ねじの好きなやつが」

「米国の本、ということだね」と越谷。
「そういえば米国では、ほうっておくと下のほうの職場ですぐに不正が発生する、という話を読んだことがある。統計的に正しいのかは知らないが、すくなくとも米国の管理職はそう思っているらしい。だから不正は《普通にある》のが前提で、管理統制、監視、そして監査をする。だが当社では、そこまでしなくてもいいのかもしれない」

「現場の人たちはまじめですからね」
「そうそう、上にいくほどだらしないし、だいいち働かないんだ」上野が反応する。「一度、上司の手助けしに経営会議ってのに出たことがあるけど、えらい人たちがくちゃくちゃしゃべってるだけで、ぜんぜん働いてなかった」

そこまで言って、ふと上野の顔が曇った。「いまのおれたちも、そうなのかもしれないな。…おれは営業だから、なんでもカネに換算する。こうやってしゃべっているのも、何日もかけて準備しているのも、ぜんぶ会社の給料でやってるんだ。うまく結果が出ればいいけど、そうでなけりゃ、みんなに丸損させていることになる。そうじゃないですか、越谷さん? あれ、なにやってんすか?」

越谷はみんなに背を向けて、なにやら紙をいじっている。ミスコピーを機密とそうでないのに分けて、メモ用紙を作っているらしい。
「上野くんの言うとおりだよ。すこしでも働かないとと思って」
「まじめな話をしているんですよ。内職禁止! だいたい…」

◆黒煙

言い終わらないうちに、ずんっという鈍い音がした。大音響ではないが腹に響くような音。方向や距離は見当がつかない。だがふだん聞いたことのない音だけに、なにか不穏な感覚が立ち上がってくる。顔を見合わせるより早く4人は席を立ち、無言でドアを開けて表に出る。

工場敷地の中心部あたりを見渡すと、ここから案外近い一郭に黒っぽい煙が細く上がっている。爆発か火災、間違いなく非常事態だ。4人はそれを認めると一瞬、立ちすくんだ。たぶん各人が、とっさに判断していたのだろう。状況を確認しにいくべきか、反対方向に逃げたらいいのか、社内放送があるまで待機するのか。

越谷が口を開き始めるのと同時に、玉川あけみが声をあげた。
「見にいきましょう」

「あ、あけみちゃん」
「あけみくん」
「玉川さん…」

言葉を探しながらためらっている3人の男たちに、玉川は宣言した。
「私たちは監査部ですから」

 

(天生臨平)

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あけみくんの宝箱04-本の上を駆け抜けて

「事態を悪くするより前に前兆を見つけて改善する」社長が内部監査に求めるのはそういうことらしいが、具体的な指示はない。コンサルタントに頼ることも許されず、監査の原点からひもといていく。

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■04.本の上を駆け抜けて

東側の窓からさしこむ光をたどると、5月の朝に特有の、すきとおった宝石のように輝く木漏れ日が目に入る。きのう通販で頼んだ書籍が7冊ほど届いていた。どれも表題のどこかに「内部監査」の文字が入っている。

まずは基礎的な情報を手に入れるため、監査部の4人は分担して書籍に目を通し始めた。午後いちばんからは、それをもとにしたミーティングだ。

◆内部監査のやり方

「なんだか低調ですよーっ」司会役の越谷部長が口を開くより前に、上野が機先を制した。「おれが読んだ本には、内部監査のやり方が書いてあったんです」
「それは、よかったじゃないか」

「おれが言ってた《本を読めばやり方は書いてあるでしょ》は当たっていたわけですよ、ある意味。
ところが、3年間の監査計画を立てなさい。1年の計画を立てなさい。監査通知を出しなさい。実地監査はこうでこうで、報告書を社長に提出してねって、段取りはやたらと詳しいんだけど」

「それで?」
「じゃ計画はどうやって立てればいいの。実地監査はほんとのところ何を見てきて、報告はどうまとめて。そういうのがわからないんです」
「ふーん、困ったね。けど、きみは3日間で準備できると言っていたな。終わりそうか?」
「3年はかかりそうです」

「そっちはどうだ」越谷は目黒のほうに向き直った。
目黒がパソコンを操作すると、壁の40インチモニターに文字が浮かぶ。

◆内部監査の定義

「内部監査協会の資料から引っ張った定義です。《内部監査とは、組織体の経営目標の効果的な達成に役立つことを目的として、合法性と合理性の観点から公正かつ独立の立場で、ガバナンス・プロセス、リスク・マネジメントおよび》…」

上野の顔色が変わった。「おれ、そういう長い話に弱くて…」息が荒くなっている。目黒はかまわず続ける。

「《およびコントロールに関連する経営諸活動の遂行状況を、内部監査人としての規律遵守の態度をもって評価し、これに基づいて客観的意見を述べ、助言・勧告を行うアシュアランス業務、および特定の経営諸活動の支援を行うアドバイザリー業務である》」

上野は白目をむいて硬直している。目黒は一息入れた。
「たしかに長い一文だけど、入り組んだ構造にはなっていないので二、三回読めばわかりますよ。上野のためにというわけではないが、分解して箇条書きにしました」

「内部監査の定義はまず目的から入っています。

目的:経営目標の効果的な達成に役立つこと。
観点:合法性と合理性。
立場:公正かつ独立。
態度:内部監査人としての規律遵守。

行動:経営諸活動の遂行状況を評価。
評価の対象:ガバナンス・プロセス、リスク・マネジメントおよびコントロール。

業務の定義1:評価に基づいて客観的意見を述べ、助言・勧告をおこなうアシュアランス業務。
業務の定義2:特定の経営諸活動の支援をおこなうアドバイザリー業務。
以上ですね」

◆保証と助言

「なるほど、すこしわかりやすくなったかな」と越谷。
「ええ、複雑だと思ったら分解してみるのが理系のやり方です」
「だが専門語が難しい。ガバナンス・プロセス、リスクマネジメントおよびコントロール」
「ガバナンス・プロセスは統治の段取り。ガバナンスは、組織がうまく動いていくように、あんまり勝手なことをしないように治めるといった意味のようです。ほかはまだ調べがついていません」

「コントロールなんて野球のピッチャーしか浮かんでこないけど」上野が口をはさむ。
「コントロールの訳語は《統制》かな、この場合は」
「アシュアランスは保証だろうね。アドバイザリーは助言」越谷は知っていることだと態度が重々しい。

「あれ、助言って、アシュアランスのほうにもひっついてますよ。《助言・勧告をおこなうアシュアランス業務》。どうなってんすか越谷さん」と上野。
「うーん、まあ、いろいろ都合もあるんだろう」

「アシュアランスもコンサルティングも助言という行動を含んでいる、ということだと思います」目黒が引き取る。「アシュアランスは一定水準の《あるべき姿》が達成されていることを保証する活動。その中で助言といえば…」
「足りないところを補うために、やり方を教えること?」と玉川あけみ。
「そうですね、そう解釈しました。《あるべき姿》が達成されていればいいけれど、いま一歩足りないところは《助言・勧告》で補う」

「いっぽうでアドバイザリーはもう助言そのものですから、解説も不要でしょう」
一同、うなずいたのを機に目黒は画面に向き直って話を先に進めようとする。

「すこし待ってください。なにかが足りない気がします」玉川あけみの声だ。なにが足りない? 3人はすこし息をのむ。

◆ダウンサイドとアップサイド

「アシュアランスはまず保証して、不足しているところを補うんですね。でしたらアドバイザリーは、《あるべき姿》に達しているところを、さらに改善する、という感じがしませんか」

「なるほど、ダウンサイドとアップサイドの考え方だな」すばやく反応したのは越谷だ。
「ダウンサイド…ゴルフですか?」上野はもやっとした顔。

「ダウンヒルじゃない。ダウンサイドは想定より低い結果。アップサイドはその逆。下ぶれ、上ぶれといったらいいか。投資の世界ではダウンサイドリスクやアップサイドリスクという言い方をする。事業計画を立てるときも出てくる言葉だ。成績が想定を下回るときに、それを補うために用意しておくのがダウンサイド・シナリオだ」

「アシュアランスとアドバイザリーも?」
「そうだな。アシュアランスつまり保証活動の中で、ダウンサイドを補うのが助言だ。《あるべき姿》が満たされたときに、さらにアップサイドを狙う助言がアドバイザリー、こんな整理ができる」

「ははあ、アシュアランスとアドバイザリーって、はじめはさっぱりわからなかったけど、いまでもやっぱりわからない。両方とも《ア》で始まってるぐらいしか。でもふたつがぼんやり並んでいるんじゃなくて、裏にしっかり仕組みがあるぞ、というのはわかってきました」
上野の素直な感想を越谷がまとめる「両者がきちんとした構造で対置されているらしい、ということは認識しておくべきだな。あけみくんの着眼はよかったよ」

◆経営目標の達成を支援する

目黒が画面に視線を誘導する。
「この中で大事そうなものに印をつけると、こんなことになりそうです。
目的《経営目標の効果的な達成》
行動《経営諸活動の遂行状況を評価》
業務1《アシュアランス - 客観意見と助言・勧告》
業務2《アドバイザリー - 特定の経営諸活動の支援》」

「ほーっ、よくわかる。言葉はわからないところもあるけど、すっきりしたあ」上野の声はカラ元気ぎみだ。
「そうか、これで監査できそうか」と越谷。
「無理です。抽象的すぎて手も足も出ません」

「抽象的ですが、スケールも大きいですね」目黒はモニター上の文をひとつずつマウスカーソルで指す。
「経営目標の達成、経営諸活動の遂行状況、助言、勧告、支援…。やりがいが湧いてきそうですよ」
「ああ、あとはおれたちにできるかどうかだな。初めて氷の上に立ったのに3回転半を飛べっていわれているみたいだ」上野が腕組みする。

(天生臨平)

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あけみくんの宝箱03-改善型監査

売り上げが激減して信用も落とした。原因は強引な営業と低い品質。それをあばき出すのが内部監査なんだ、とみんなが納得しかけたとき、玉川あけみが言いだす。

「すこし待ってください。なにかが足りない気がします」

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■03.改善型監査

「お客さまの信頼をなくすよりずっと前に、営業のしかたをチェックしていたら、どうなんでしょう」

視線の集中砲火を浴びながらも、玉川あけみの声は落ち着いて明るい。

「短期利益、っていうんでしたっけ。そればかり追いかけているようだとか、仕入れた製品の質が落ちているとか。それがわかったら、すぐに知らせてあげる。本人にもまわりにも。そうして悪いところを直していけば、だれも傷つかずにすんだんじゃないかと思います。

それにみんなが《悪い部長》っていうけれど、そんなに悪い人だったのかな。その部長さんだって、成績が上がってくれば、もっと上げたくなってがんばってしまうし、まわりから注意してもらえないと、ついつい深みにはまる。そんなこともあったんではないでしょうか」

一気に言ってしまうと、彼女はちょっと首をすくめるような動作をした。みんな納得して軽くうなずいている。ただ部長の越谷だけは、彼女が話しているうちから妙にそわそわしていた。

◇摘発型監査と改善型監査

「あの、ほんとにそうだよ、あけみくん。じつにそのとおりで、だからすこし話の順序を間違えていたみたいだ。社長が、じゃなくて、そういうことなんだ」

わけのわからないことをしゃべりながら、越谷はボードに向き、悪い部長のエリアの下に「摘発型監査」と書き入れた。

「不正を見つけ出すためにやる監査を摘発型の監査という。だが、いまどきこれはハヤらない。やらなければならんときは、やらなければならんが、劇薬みたいなもんで、悪い影響も多い。

いま世間の流れは、改善型とか助言型とかいわれる監査だ。予防型の監査というのも、だいたい似ている。ちょうどあけみくんが言ってくれたのが、それに当たる。悪くなる前にその芽をみつけて、改善するためにやるんだ」

「改善型(予防型)監査」と書き加える。「これが大切だし、先に話をしなければならなかったんだよね」

◇社長が与えた使命

「越谷さん、この話って、社長から聞いてきたんですよね」ガサツだけどカンがいい上野が質問した。
「そ、そうだが」
「悪い部長の話もなにもかも、ですよね」
「そうだよ。きのう社長に呼ばれて、新しい監査部について話を聞いたんだ。どんな方針でやっていくとかね。ぜんぶ社長に伝授された話だ」

開き直った口調である。越谷という人間を多少は知っている目黒と上野は、思わず顔を見合わせた。(最初からそう言えばいいのに。変に受け売りばかりで、知ったかぶりなんてして、もう)と顔で語りあっていた。

「内部監査のカケラぐらいはわかったと思う。まだ教えることはあるが、内部監査部の活動について一気に結論を言おう。《内部監査で会社をよくすること》。これが社長の求めている、われわれの使命だ」

◇準備のための期間

「なんか抽象的だし、ピンとこないなあ…」上野が独り言のようにつぶやく。だが目黒は、さっきの悪い部長の話と、玉川あけみの発言を重ね合わせて、これから自分たちが取り組むことが、おぼろげにわかってきたような気がしていた。

それともうひとつ、さっきから出ている「品質」という言葉に、なにか焦げ臭いような感覚がある。目黒にとってつい最近の、だが思い出したくない記憶だ。

越谷が宣言する。「さっそくやるべきことは、内部監査の準備作業。活動方針や具体的な方法を組み立てるんだ。そのために与えられた期間は1カ月」
「1カ月!?」上野が飛び上がった。

「30日ですか…3日の間違いじゃないんですか。だいたい、監査のやり方なんて本に書いてあるでしょう。それをみんなで読んで、はい終わりだ。
じっさいどうやるか、いまは見当つかないけど、明日かあさってにはその監査とやらに出かけられますよ、本が一冊あれば。あと必要なものはなんですか。リュックサック? 懐中電灯? トンカチも?」

「なかなかそうはいかないんだよ。この会社がいまどんな状況で、なにが悩みで、だからどういった目のつけどころで監査をやっていくか、下調べが必要なんだ。そんなことは本に書いていない。

もうひとつ、みんなはいまシロウトだ。だがずっとシロウトでは給料をもらうわけにいかない。給料ぶん働くために、いや少なくとも現場に迷惑かけないために、監査の段取りもしっかり考えておくことだ。細かい監査の技術は、やりながら学んでいくにしても、だね」

「わかりましたが、なぜそれが1カ月なんでしょう」こんどは目黒が尋ねる。
「まあ、いろいろ都合もあるんだろう」

上野は納得していない様子だ。「…準備に1カ月だなんて悠長な。営業のやつらはみんな言ってますよ。管理部門は10分の1のスロー再生だって」

◇だれにも頼れない

「あの、部長」
「なんだね目黒くん」
「その調査とか段取りとかって、コンサルに頼むようなことじゃないでしょうか」

目黒のいた技術部では、新しいプロジェクトを立ち上げるときや機械装置を大幅にリニューアルするとき、よく外部の専門家をコンサルタントとして招いていた。

「うん。準備から立ち上げまでぜんぶ、外部に指導してもらうのが普通かもしれない。だがな、今回はそれができない。社長がコンサルは頼むなと言っている」
「え、そんな…。どうして?なに考えてるんですか」と上野。
「内部監査協会のような専門機関にも、当面は出入り禁止だそうだ」

「コンサル料をケチって、研修費もケチって。社長ってそんなにシミッタレだったんですか」上野が食い下がる。
「そういうつもりではないと思うんだが。まあ、いろいろ都合もあるんだろう」
「あ、それにたしか社長はコンサル出身でしたよね」

田端社長は、その道ではすこし名の知れた経営コンサルタントだった。それが《中堅の素材メーカーのトップに》と、半年前の社長就任時にネットのニュースで報道されたし、社内でも話題になっていた。

「だからこそ、なにか考えがあるんだろう。1カ月かけて自分たちだけで立ち上げるように。これが社長の指示だ」

◇長いのか短いのか1カ月

窓の外は日が中天にかかり、塀越しに遠くの木立ちが明るい。越谷は、しめくくるような口調で言った。
「わたしはこれから本社の部長会に出てくる。その中で一言だけ、監査部が発足した報告もしておく必要がある。頼もしそうな部下ばかりで幸せですと言っておこう」
上野は(頼もしくて悪かったですね)といった顔をしている。

「あ、そうだ」去りぎわに越谷が続ける。「上野くんが言っていた、監査に必要な道具。リュックサックやトンカチはあまり使わないようだが、懐中電灯、というのは案外ヒットかもしれないね」

「え、どういうことですか」
「そのうちに教えるから、じっくり考えておくことだ。それからきみたち、ネットでキーワードでも漁っておきなさい。内部監査の《定義》とか《目的》とか、硬い話も仕入れておかなければな。それじゃ」

越谷が去ったあと、残った3人は首を寄せあって話をした。あの頼りなさそうな部長がリーダーで、ほんとに大丈夫なんだろうか。なにかつっこんでも「まあ、いろいろ都合もあるんだろう」しか言わないし。
でもぼくらのほうがもっと頼りないのが、そもそもまずいわけだし。1カ月なんて長い間、おれたちなにするんだ。いや、ぼくはみじかすぎてたいへんな気もする。などなど。

◇懐中電灯

ふと上野がつぶやく。「監査に懐中電灯を使う、ってなんだろう」
「機械の裏とか、倉庫の奥とか、照らして調べる、ってことかな」と目黒。
「いや、そんな単純な話じゃないぞ」「なにか、たとえ話みたいな気がします」上野と玉川あけみが同時に応答した。

「越谷さんもわけがわかっていない、と見たね。たぶん社長にナゾかけられて、まだ答えをもらっていないんだ」おおざっぱなくせに勘ぐりマンの上野が言い放った。

「くちびるの左わきがすこし引きつっていたろ。知ったかぶりやハッタリをするときの、あの人のクセだ。それに今朝、ドアの前で集まったときもさ。わざとみんなが揃うのを待って、バルコニーから登場! って、まさかだけどカッコいいつもり?」
「いや、非常階段からだったが…」目黒が訂正する。

小さな吐息とともに、推定年齢24歳の玉川あけみの声が聞こえた。「越谷部長って、わかりやすい人なんですね…」

 

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(天生臨平)

あけみくんの宝箱02-悪い部長といい部長

「監査部」ができた日。部長の越谷は3人の部員に、内部監査について説明を始める。一夜漬けで仕入れた知識かもしれない。「内部監査は会社がうまくまわっているかを確認する仕事。といっても売り上げや利益は経営陣もよく見ている…」

◇前回の疑問
どうやって売り上げをあげているのか。細かい手段は、当の営業部だけが知っている。それでいいのか。

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■02.悪い部長といい部長

「仮に、ばりばりと成績を上げる営業部長がいたとしよう。それが評価されて、さっさと役員になった。ところがあとに座った営業部長のもとでは、じりじりと成績が下がっていった」

意見を求めるように、越谷は言葉を切った。上野が応じる。
「やっぱりねえ、その前のほうの部長さんは優秀だったんだ。あとの部長さんをまた変えるとか、がんばってもらうとか、なんとかしないと」

「ところが、だ。いろいろ調べてみると、新しい部長のやり方に問題はなかった。新規顧客をていねいに開拓したり、お客さまの信頼を取り戻したりして、営業の体質をよくしていたんだ」

「お客さまの信頼を取り戻した、って…?」
「そう。前の部長がこわしていった、お客さまの信頼をだ。前の部長の営業のやり方はこうだ。できもしない約束を連発して、強引に契約を取ってくる。しぶる顧客には、リベートやコネや、相手の弱みまでもちらつかせて、1回だけでいいからこの値段で買ってくれと迫る」

◇手抜き製品と強引営業

「そのおかげで、営業成績バツグンですか」目黒は、ため息と一緒につぶやく。

「ああ。仕入れは仕入れで、下請けをたたいて手抜きの製品を作らせる。使ってみると不具合がぽろぽろ出るが、しかし安くできる。これで儲からないはずがない」

「でも、それで儲かるのは短い間だけですよね」玉川あけみも口を開いた。
「そのとおりだよ」越谷の言葉に力が入った。

越谷は立ち上がると、ホワイトボードに「前の部長 強引な営業 低い品質 顧客不満足 短期利益」と書いた。
その右には「あとの部長 誠実な営業 高い品質 顧客満足 長期的な利益」と対応した位置に書き足して、「短期利益」「長期的な利益」を赤いマーカーで囲った。

◇短期利益の追求

「ここが大事なところだ。前の部長は短期利益を追っかけて、顧客の信頼を徹底的にくずした。といってもクレームがやたらと吹き出てこないぐらいに、上手にやったので発見が遅れたんだ。痛い目にあった顧客はもう二度と取り引きをしようと思わない。そのせいで、あとの部長になってからじわじわと売り上げが下がった。前の部長はうまく売り抜けたわけだ」

「で、どうなったんですか。あとの部長が気の毒になってきました」
「あぶなく、あとの部長が左遷されるところだった。幸いに過去からいままでの営業のやり方をぜんぶ調べて、あとの部長が悪くない、いやとてもいいことをしていると、みんなが理解したんだ」

越谷は続ける。
「前の部長は役員になっていたが、その件ですぐに処分されたりはしなかった。まあ、いろいろ都合もあったんだろう。
だがみんなが注意して見ていると、しだいに化けの皮がはがれて、誠実じゃない人だということがわかってくる。そのうちに会社を去ることになってしまった」

◇だれが見つけたのか

「よかった…」
「めでたしめでたしですね」
「でも、よくありそうな話ですけど」
「本当にあった話だが、当社じゃない、よその会社のことなんだ。ところで過去からいままでの営業のやり方をぜんぶ調べて部長の濡れ衣を晴らしたのは、だれだと思う?」

越谷は、すこし上目づかいにぐるりと首をまわして部下の全員を、(3人だけだが)見回した。
部下たちは無言できょとんとした表情をしている。
そのうちに「だれが、って言ってもなあ」「登場人物、少ないし」などという声があがりはじめる。

「わからないのか…」越谷は声を落とした。「いまわれわれは、なんの話をしていたんだ」
「悪い部長といい部長の話」
目黒のとても素直な声に、越谷はますます肩を落とした。

◇悪い部長はどうなった

「あ、わかった!」上野が声をはりあげた。「よその会社の話なんすよね。そして悪い部長は、役員になったけれども、結局は会社を去ってしまう」

越谷の目にすこし希望の光がともる。上野は続ける。
「そんなに詳しい話を知っていて、そしていまはその会社にいない人。ずばり、越谷部長が悪い部長だったんだ!」

越谷は、もうワタクシ、宇宙人にさらわれて別の惑星に行ってしまいたい、といった表情で、思いきり頭をかきむしった。越谷の頭髪はだいぶ寂しくなっている。いいのか。
「勝手に話を作るな! 聞きたいのは、だ、れ、が、どんな立場の人が、悪い部長の悪さをあばいたんだ、ってことだ!」

「それが内部監査、ですか」玉川あけみがつぶやく。

「…そう、そのとおりだ…」越谷は低く応答すると、そのままずるずると腰を落とし、イスにかけた。顔には、ようやく正解が出てきたという安堵が2割、これからこんな連中と一緒に仕事をしなけりゃいかんのかという落胆と不安が8割、といった表情が浮かんでいた。

◇監査は告げ口?

すこし気をとりなおしたか、越谷はホワイトボードの、いい部長の列と悪い部長の列の中間に大きく「業務の適正」「内部監査」と書き入れた。
「内部監査は、業務の適正さを確認する。そうやって、長い目でみて《いい会社》にしていくんだ。
そのためには《どう営業しているか》を営業部だけが知っているのではだめで、内部監査人が業務の実態をしっかり見にいくことが必要なんだね」

「はい部長、質問です」上野が手を上げる。「役員になっている悪い部長に向かって、あんたが悪いんだ、って監査の人が言ったんですよね」
「そういうことになる。正確には、内部監査人は社長に報告したんだが」

「チクリじゃないすか。そんなことして、悪い部長ににらまれたりしたら困るでしょ。悪い部長は役員にまでなっちゃったというし、その監査人て、あとあといじめられるんじゃ?」上野はガサツなようでいて、営業出身だけあって人間関係には気がまわるらしい。

「部長、実際どうだったんですか。監査の結果を聞いて、うらんだりしませんでしたか?」
「だからわたしじゃないっ! 別の会社の別の部長のことだ!」

◇まずいことが起こったときの監査

越谷はすこし呼吸を整えてから続けた。
「それに告げ口ではない。正式な手続きを経て、証拠に基づいて出した結論だ」
越谷の口調が真剣さを帯びてくる。

「監査をやっていれば、たまにはうらまれることもあるかもしれない。しかし営業だって技術だって、体を張ってがんばっている、ということは君たちがいちばんよく知っているはずだ。監査だけ安全なところにいちゃ、いけない」
最後は自信たっぷりにしめくくる。

「そうだよな、悪い部長はこらしめてやらないとな」「ああ、なんたって悪い部長というぐらいだからな」上野と目黒が、たがいにうなずきあう。
「内部監査って、つまりそういうことだったんだ」「まずいことが起こったら、そこへ入っていけばいいんだ。そこでなにが起きたのかって調べればいい」「これならできそうだぞ、内部監査」
しきりに納得する二人。

「すこし待ってください。なにかが足りない気がします」

玉川あけみの声だ。なにが足りない? と疑問をもって、みんないっせいに彼女の顔を見る。

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(あもうりんぺい)