人財活用02-仕事の三角形

■《三つのしょうがない》の三つどもえ

前回の《三つのしょうがない》は、ばらばらではなくて、からまっている。

ひとつの要素がほかの要素の生成発展を触発する。三角形全体がループして、向上のスパイラルを形成する。要素から要素を導き出してみよう。(図参照)

job-triangle

■使命から導く

★使命→使命感→意欲
使命が与えられた。それは明確で納得のいくものだ。たとえば組織貢献や社会貢献。お客さまの笑顔が見られる。職場のみんなの幸せ度がアップする。そこで芽生えるのが使命感。これが意欲に直結する。

★使命→学習動機→能力
使命が与えられたが、それに対応する能力が不十分だ。幸い、使命感と意欲はたっぷりある。意欲が学習動機につながり、最終的に能力を伸ばすことができる。もともと能力が足りている場合でも、それをさらに伸ばす力になるのが使命だ。

■能力から導く

★能力→自信→意欲
能力が足りてくると、それに対応した自信が湧いてくる。自信があれば活動したくなる。活動の行き先は「意欲」の形で現れる。

★能力→自負心→使命
高い能力は、それに対応した自負心を生み出す。とくに組織内のオンリーワン、業界で有数といった能力を備えると、自負心は強力になる。これが使命達成へのアプローチになる。 また同時に、使命そのものの見直し、質の向上も促すことになる。

■意欲から導く

★意欲→学習意欲→能力
ここでいう意欲は、使命に向けられたものだ。だがこれは学習意欲にもスライドできる。使命への意欲が、自発的な学習を通じて能力向上に結び付く。

★意欲→達成意欲→使命
意欲は、「なんでもいいから作りたい」といった素朴な無目的さを持つことがる。それを使命の方に向かわせると「達成意欲」の形になる。より大きな使命を設定してチャレンジできるのも意欲のおかげである。

ポジティブに捉えて語ったが、逆もある。使命がはっきりしない→意欲がわかない→能力を高められない、など。

負のスパイラルを駆け下りてしまわないように。どうしたら向上のスパイラルに入れるのか。ムーブメントを起こすための仕組みを考える。

次回へ。

(あもうりんぺい)

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人財活用01-三つのしょうがない

人を仕事にかりたてるエンジンはなんだろう。筆者は《三つのしょうがない》を提唱している。

・やらなきゃ、しょうがない《使命》
・やりたくて、しょうがない《意欲》
・できるから、しょうがない《能力》

それはなんなのか。

【1】やらなきゃ、しょうがない《使命》

この中には「やらないと困ること」《必要・義務》も含む。その延長上に、人によっては以下のような方針をしっかり立てている者もいる。
・言われたからやる(言われないとやらない)
・怒られないようにやる(怒られないとやらない)
・お尻に火がついたらやる(つかないとやらない)

だがそれは置いておこう。(いやこの《やらない3兄弟》も、とても大切なので別稿で扱う。)

この「やらなきゃ、しょうがない」には、《必要・義務》よりもずっと大切な要素を含んでいる。見出しに掲げた《使命》だ。

・やらなきゃ、世の中どうなる(社会的使命)
・やらなきゃ、組織はどうなる(組織的使命)

・成長のためには、やらなきゃ(成長の使命)
・リスクを断つためには、やらなきゃ(防御の使命)

使命はすべての出発点になる。だからこそ大事なのは、考え抜いて組織の使命を設定すること。それを上手に切り分けて構成員に配ることだ。

【2】やりたくて、しょうがない《意欲》

いくら必要なことでも、意欲が伴わないと、続けていくことは難しい。

最初はだれでも意欲的だ。だが困ったことに、放っておくと意欲は減り続ける。その原因は加齢、安住、刺激の不足、理不尽など。(人活05で扱う。)

人はだれも「仕事でしたいこと」を自分の中に持っている(みつけられずにいる者もある)。そして目の前に仕事があるときは、そちらに自分のやる気を振り向ける方法も持っている。

こういう荒っぽい議論を聞いたことがあるだろう。
「仕事はなあ、やりたいことをやるんじゃないんだ。やらなけりゃいけないことをやるんだよ」
やらなきゃいけないことの優先度が高いのはそのとおりだ。だがそんな単純な話ではないことは、いままでの議論でわかってもらえると思う。

個人としても組織としても、意欲をどうコントロールするかが課題だ。意欲の設計、意欲のふくらませ。これはほかの《しょうがない》にくらべても奥が深い。やりたい思いを、めいっぱい溜めることがリーダーの能力だ。

【3】できるから、しょうがない《能力》

能力が伴っていないと、いくら必要なことでも、いくらやりたいことでも、できないのは当然だ。できないから、しょうがない。

これがいったん「できる」となると、まわりが放っておかない。自分も放っておかない。下のような「しょうがない状況」になる。

・自分でなけりゃ、しょうがない(能力可能)
・いまでなけりゃ、しょうがない(適時対応、状況可能)

仕事にかりたてる力としては、上の「自分でなけりゃ」のほうが大きい。以下はそれに沿って語る。

使命に適した能力のある者がいれば、組織(上司)の側はそれを起用して、メリハリのある担当設定をしやすくなる。

能力の裏付けがあると、自信も意欲も湧いてくる。自分が能力的に組織のオンリーワンであった場合はよけいに、能力の発揮自体が使命感にもつながる。

「自分でなけりゃ」の状況を作りあげることの大事さは言うまでもない。

力強く進んでいく仕事では、《三つしょうがない》が互いを高めあい、抜き差しならないほどからみあっていく(次回、仕事の三角スパイラル)。そうなると、外から邪魔しようとしてもしょうがないほど、仕事に弾みがついてくる。

どうころんでも、仕事というのは「しょうがない」から、やるのである。

(あもうりんぺい)

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ここまで来てしまったのか成人式

成人式がとんでもないことになっているらしい。
北九州にある某市では、参加者の服装が年々派手になり、行きつくところまで行っている、というニュースを見た。

ギンギンの族ファッションで固めた男の集団。頭にバービーぐらいの人形をいくつも、頭髪のようにくくりつけた女性。この人は靴のかかとを透明にして、これまたいくつもの人形の生首を入れている。
えりを大きく開けた江戸時代の「おいらん」の装束の女性たち。おいらんファッションは定番として認知されつつあるらしい。1回限りの衣装のために80万円もかける者がいるとか。

こんな風潮に対し、筆者はひとつ、声を大きくして言いたい。
すばらしい!

どうしてこれがいいかというと。第一に、人に迷惑をかけない。(これが一番たいせつな要素だ。)それからバカバカしくていい。見ていて楽しい。「いまどきの若い者は」と言いたくてしょうがない人たちに楽しみを提供している。社会貢献だ。

人の迷惑の話でいうと。何十万円の衣装代をどうやって捻出したのか。「この日のために」こつこつバイトで貯める者もいるというが、一方で親からの強奪だってあるだろう。迷惑じゃないのか。まあこれは身内だから互いに責任をとってやってくれ。他人にゃ関係ない。

異形ファッション台頭の裏には、仕掛けた衣裳店があるという話があるが、これもかまわない。人は仕掛けられただけでは熱意をもって動くものではない。

その一方で、くだんの北九州の会場で流血のトラブルがあった。
全国でも、進入禁止の会場前広場に大量の車で乗り込んで暴れまわる。式の最中、登壇者に食ってかかる。私語が充満してそもそも式にならない。そんなことが多発している。

こういったことは断じて許せない。理由は、人に迷惑がかかるからだ。

そりゃ確かに、成人式なんて官製のお仕着せで、主催者のくだらない自己満足のためにやるものだ。だからといってそういう主催側の人たちにも人権がある。踏みにじってはいけない。

もし若者のタメにならない成人式だ、市の予算のムダだと思ったら、集まってこなければいい。みんな来なくなれば自然に消滅するだろう。

一番いけないのが「私語で式が台なし」のパターンだ。集団の陰に隠れての怠惰、無関心、非協力という名の破壊活動。これはどんな努力も覚悟もなしに実行できるだけに、そのぶんだけ卑劣さが増すテロ行為だ。

式だけではない。学校でもどこでも、この種のマインドが蔓延している。「だって、つまんないんだもん」ならば退場しなさい。

成人式では、こうした私語爆弾テロの実行犯は、男はスーツ、女は振り袖に白い羽毛ショールという没個性スタイルが主流だ。

会場内でそんなことになっているわきで、表では知恵を絞ったキテレツなファッションで練り歩く。「式なんて出ないわよ」
いいではないか! この個性、自己主張。しかもバイトで貯めながら(または親と死闘しながら)何十万円の衣装投入という努力と覚悟。

式に出ないと宣言したその時点で、押し付けではない、手作りの成人式が成立している。ということは、会場内の主催者たちとの間では理想的な不可侵・共存関係が構築されたということでもある。

若者は騒ぐものだ。自己主張するものだ。「人の迷惑」という唯一絶対の垣根だけ見越して、あとは楽しく見守っていたい。

(あもうりんぺい)

敏腕社長の厚生リスク、または情けはだれのため(2)

■補償はする。風評にも訴訟にも備える。いいのか?

危険商品に戻って話をしよう。事故時の補償などの直接コストが300万円。それを防ぐための安全対策費は800万円。
[誤解]「安全対策なしにすれば、リスクよりリターンのほうが大きいので、強行」
[正解1]「評判や後のコストを加味した自社利益を考え、安全対策」
[正解2]「顧客の生命財産が第一だから、安全対策」

[誤解]が短絡的すぎるのはもちろんだ。問題は[正解1]が好ましいのかどうかだ。筆者の結論を言おう。

「よくない」

なぜかというと、企業の方針レベルの話になる。

■自社利益という極限的無限ループ

[正解1]のように考えていると、商品の企画や製造や販売や、すべてが「自社利益のため」という方向になる。顧客の望む方向からずれていき、将来はそっぽを向かれる。結局は自社利益のためにならない。だから顧客や社会の利益を図ろう。

やっぱり「自社のため」が理由になっている。これは[正解1.1]というべき考えだ。

だからそれを改めて、しっかり顧客のほうを向き、ずっと向き続け、それで末永く…自社のためになる。[正解1.11]

あれ、いつまでたっても[正解2]に届かないではないか。

これぐらい、われわれは「自社(自分)」の利益を第一にし、そこに収束する考え方を植え付けられている。

■厚生リスクという概念

「企業の目的は自社の利益」と割り切るなら、それでもいいのかもしれない。だがいったんその考えをとったら最後、上の無限ループにはまる。
・とりあえず社会の利益を図ろう。自社利益のために。
・すると社会の利益からずれていく。
・社会から支持を得られず、自社のためにならない。

別の価値軸を立てる。企業がいま存在するのは、なんのためなのか。当サイトのCSRカテゴリで何度か触れたように、《社会に価値を提供するためである》。その目的の下に、利益もついてくるし自社の存続もついてくる。

そう考えれば、宿痾のような無限ループから脱することができる。 これを日本の伝統に沿った形でいうと「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」になる。

A社危険商品のように、社会への価値提供を阻害するリスク、あるいは社会に不利益をもたらすリスクがある。これを《厚生リスク》と呼んでおこう。ここで厚生とは、広い意味で「社会が得すること、損しないこと」だ。

厚生リスクは「自社の利益を阻害するリスク(エンタープライズリスク)」とは別建てであることがポイントだ。いったん自社利益を棚上げにし、独立したリスクとして厚生リスクを捉える。

■厚生リスクを抑える安全対策費、そしてアルファ項

厚生リスクは、無限に追求できるものではない。事故の可能性も含めて、あらゆる意味で社会に迷惑をかけない商品というのは想定しにくい。対策のために、どこまでもコストをかけ続けることはできない。程度問題だ。

では、どこまで費用をかけられるのか。厚生リスクを抑えこむための対策費を式にすると、こうなる。(前回A社の例を[誤解]に当てはめると、800万円 > 300万円だと理解してほしい。)

《安全対策を放棄する基準》(式が成立したとき、それ以上の対策をしない)
[誤解]安全対策費 > 事故時の直接費用
[正解1]安全対策費 > 事故時の直接費用+その他想定費用+ブランド毀損
[正解2]安全対策費 > 事故時の直接費用+その他想定費用+ブランド毀損+アルファ

《アルファ項》をいかに大きく取るかが、社会厚生に対する企業姿勢の表れになる。技量しだいで、アルファを大きめにしてもプロジェクト全体収支のプラス維持はできる。これに努力を傾けることだ。

自社のために。

(あもうりんぺい)

敏腕社長の厚生リスク、または情けはだれのため(1)

■敏腕社長の判断

A社は創業2年目の小規模企業だ。商品を企画し、海外で委託生産して販売している。まだ知名度はないが、営業は順調だ。

A社のある商品で、安全性に不安があることが判明した。利用者の手を傷つけてしまう恐れがある。商品を改良して安全にするには、対策費として800万円ほどかかる見込みだ。

オーナー社長は「安全対策せず商品を出したらどうなる?」と検討を指示した。「クレーム対応として、ケガの治療費なども含めて300万円」と営業部が試算した。社長はすぐ判断した。「よし、安全対策なしで行こう」

■なにとなにを秤にかけるのか

リスク(事故のときの対応)は300万円だ。それに対応したリターン(コスト削減)は800万円になる。リスクとリターンを秤にかけたら、リターンのほうが大きい。ある意味で当然の判断かもしれない。

だがこれがほんとうに最善の策だったのか。その後2年間でA社は消滅してしまったから、確かめようがない。社長は多額の借金をかかえ、行方をくらましているとのことだ。

A社の策がまずかったとすれば、それはコストと顧客の安全をそのまま秤にかけてしまったことだ。いったん傷つけてしまった身体は、治療費を払ったからといってチャラにはならない。

■結局は自分のためなのか

さてここからの流れはすこし複雑だ。普通ならA社社長の判断はこう批判される。「数字の上では得していても、会社の評判が悪くなるだろう。訴訟だって起こされるかもしれない。長い目で見れば得しないよ」

これをよく見ると、危険な商品の発売は「お客さまの身体が傷つくからマズイ」ではなく「ブランド毀損や係争で当社が損するからマズイ」という論理にすりかわっている。結局は自分のためだ。

■ことわざが教えること

同じような構造は「情けは人のためならず」ということわざにもある。

世間ではよく解釈問題として語られる。
[誤解]「情けをかける(救援する)ことは相手のためにならない」
[正解1]「情けをかけると、結局は利得として自分に戻ってくる」

この正解のようでないとね、以上終わり。と、普通はなる。
だかここでは[正解1]に潜んだワナの話をする。

最後には自分のほうが大事、自分が得すればいい、という結論だとしたら、これは危険商品のときの論理すりかえ問題と同じになってしまう。

ことわざの場合はしかし、
[正解2]「情けをかけると、相手が助かる。それが最高にいいことなのだが、それだけではない。ついでに自分もうれしいし、あとあと得することになるかもしれないんだよ」
といった長めの解釈文が的を射ているかもしれず、それはそれでいい。

それでは[正解1]のほうはどうか。これも正解なのか。
次号へ。

(あもうりんぺい)

事務職のお仕事

社員1「係長、ちょっと画面を見てください。議案書を作りました」

係長「ああこれか。経営会議と役員会で違う書式にしろ。なんでかって、前からそうしてるんだ」

社員2「係長、こっちの稟議もお願いします」

係「あのなあ、年度の予算が発効するのは明日なんだよ。それを前提にした執行稟議なんて、おかしいだろ。ない予算をあることにするのか? 明日持って出なおしてこい! …ほんとうにもう、いや今日も忙しい忙しい」

ロボット「係長、いまの執行稟議のことですが」

係「ん? なんだHRPの256号か」

ロ「この稟議、『予算発効を前提とした事前承認』と読み替えて通したほうがいいと思います。予算額は確定していますし、融通をきかせるべきです。そのほうがスピーディです。それから議案書のほうも、書式を分ける必要はありませんね」

係「ほう、ロボットもずいぶん口が達者になったもんだな。ひと昔前は、カタカナで『ソレハ、オコタエデキマセン』みたいなことしか言えなかったが。それになんだ、おれの仕事に文句をつけるのか」

ロ「そうではありませんが、定型的な判断業務はロボットのほうが得意だとは言いたいですね。職場で習い覚えたルールや慣習だけを頼りにして、いいの悪いのと言っているだけでは、ちゃんと仕事したとは言えないんです」

係「よくもまあ、それだけ悪態がつけたもんだ」

ロ「10年ほど前、2016年ごろのことを思い出してください。コンピュータという名前の無愛想なロボットと一緒に仕事をしていましたよね」

係「ああ、画面とにらめっこしていた。おまえも無愛想だがな」

ロ「そのころからもう、定型的な判断業務はコンピュータのほうが上だったのです。集計や検索はもちろんですがね。いらない事務職が大部分だった。だが惰性で延命していただけなんですよ」

係「なら、おれにどうしろっていうんだ」

ロ「《事務職の仕事は工夫すること》だと学んでほしいんです。それをしなかったら、ロボットに職を奪われます。定型業務も、ちょっとした判断業務も、もう人間がやることじゃないんですよ。考えを変えて学習するには、いまならまだ間に合います」

係「工夫することだぁ? 学習だぁ?」

ロ「ええ。隣の係長を見てごらんなさい。小さな工夫、大きな工夫、つぎつぎと打ち出しています。このまえは人事部の組織を変えました。それまで福利担当、年金担当、給与担当などと縦割りだったのが、彼の提案で《人事コンシェルジュ》を作って窓口を一本化した」

係「ああ、よけいなスタンドプレイばかりするし、こっちもとばっちりで手間がかかるし、迷惑したよ」

ロ「あれで社員満足度が上がりました。人事部のやる気も出たし、効率も大幅アップ。スタンドプレイではありません。事務職が普通にする工夫をしただけです」

係「事務といったら、ルールに従って仕事をまわすことじゃないか。定型業務のなにが悪いんだ」

ロ「いまは初夢中だから2026年ですが、ほんとうの2016年に戻って考えてください。コンピュータにできない工夫をして仕事することが求められている。いまならまだ間に合います」

係「うるさいんだよ。いまなら、いまならって。おまえはテレビ通販か!?」

ロ「私は係長についたアドバイザーとして警告しているわけです」

係「ロボットが、アドバイザー…」

ロ「会社側も思いきったリストラを考えていますよ。あとがないんです」

係「リストラ…」

ロ「さっきからオウム返しばかりですが、大丈夫ですか。できの悪いロボットですか」

係「お、お、お、おまえに言われたくない! こ、こうしてやる!」

ロ「あ、暴力はやめてください。ロボット三原則があるから私から反撃はできませんが、器物損壊になりますよ。ロボハラ法だって、もうすぐ成立するんです」

係「ええい、うるさいこの空き缶野郎!」

タカシ「おとうさん、おとうさん」

係「ん、…ああタカシか」

タ「どうしたの。うなされてたよ」

係「なんか悪い夢を見ていたようだ。2026年なんだけど、ほんとは2016年なんだ」

タ「ややこしいね。ほんとのいまは2036年なのに」

係「いまの現実は厳しい。『人間、ロボット、人間』という三層ヒエラルキーがすっかり定着してしまったな。おれはその最下層にいて、ロボットのお世話ばかりしている。充電やら部品交換やら」

タ「そんな仕事もロボットが自分でできるんじゃない?」

係「そうだ。完全に雇用対策としてやっているんだ。仕事に噛み合わない人間も安い給料で雇っている。でないと風俗や地下経済に流れるだけだからな」

タ「だいたいわかる。ぼくも今年から就職だし」

係「ロボットより下の階層に配属されるだろう。なぁにが工夫しなさいだ。いいか、ロボットは敵だ。スキをみて打ち壊してしまえばいいんだ。おれにはできなかったが、おまえならできる」

タ「ぼく学んだよ、お父さんから。反面としてね。きちんと工夫して仕事する。ロボットより上の人間になるんだ。いまならまだ間に合う」

係「タカシ、おまえ…」

(あもうりんぺい)

コンプラ不況(2)―背中を蹴る―

◆営業がアクセルなら、内部監査はブレーキなんだよね。
◇さあ、営業の背中を蹴り上げることもあるんですが。

■制止や禁止ではない

事業(営業や生産活動)と内部監査の関係をアクセルとブレーキに例えることがよくあるが、あまりいい表現ではない。内部統制は本来、ブレーキではなく事業の背中を押すものだ。

前回で言った「重箱の隅監査」や「なんでもリスク監査」をやるのは簡単だが無意味だ。「ここからは、やってはいけない。ここまでは、やっていい」と線引きすることで、事業が安心して走れる。さらに「これはやるべき」も加わって初めて、監査の意味がある。

■たまにはかけるブレーキ

内部統制が事業に対して要求するのは《組織の成長》と《社会の厚生》の両方だ。このうち社会の厚生とは、広い意味で《社会全体が得すること、損しないこと》だ。営業や生産活動が、社会の厚生にはっきり反するようになったときに、初めて内部監査側がストップをかける必要が出る。

決められた手順をすこし外したり、なにかの記載に漏れがあったりする程度であれば、社会の厚生を害するとは言えない。ただしそれがたび重なって、規律のゆるみなど、より深い原因から発していることがわかった場合はまた別だ。これはしっかり指摘して対応しなければならない。

《組織の成長》と《社会の厚生》についての構造と具体策は、別項で早く解き明かさなければいけない。ここでは体系的な議論に先立って、両者にかかわる大きなリスクを検討する。

■不作為という最大リスク

内部監査が事業部門の背中を押すというのでも、じつは生ぬるい。お尻をたたくといったほうがいいかもしれない。

事業のリスクのうち最大のものは《不作為リスク》だ。不作為とは、「しなければいけないことを、しないこと」。すなわち不作為リスクとは「するべきなのに、なんらかの理由でしていないことによるリスク」だ。

「しなければいけないこと」の内訳はふたつある。
・安全対策や法令準拠など、いわゆる「リスク低減」の行動。
・積極営業や事業展開など、組織を成長させる活動。

前者ばかりではないことに注意しておこう。

「なんらかの理由でしていない」の、その理由とは。
・気づいているのに、怠け心のせいで手がつかない。
・保身の気持ちが働いて、失敗すると責任を問われるような行動がとれない。
・思慮が浅いために気づいてさえいない。

これらと、前記の「しなければならないこと」、とくに「積極営業や事業展開〜」を組み合わせると、重篤な《不作為リスク》の形態が浮かび上がってくるだろう。内部監査はこれらを予兆から感知し指摘する使命を帯びている。

■不祥事の裏の不作為

なぜ不作為リスクが最大リスクなのか。作為的な粉飾決算、品質偽装などの企業不祥事が相次いでいる。そっちのほうが重要ではないのか。

重要ではあるが、そうした不祥事も根っこは不作為から来ていることが多い。業績が落ちているのに正当な挽回策をとらず、適時な会計への反映を渋った。地道な品質改良の努力を怠った。当事者のまわりにいる者も、見てみぬふりをした。それらはすべて、するべきことをしていないという不作為行動だ。

ある種の不作為は、短期的業績や部門業績にこだわる立場からは指摘しにくい。いや率先して不作為行動をとることがある。

経営者や管理職とはすこし違う方向から背中を蹴ってくれる。そんな監査部門を持つ事業は幸せである。

(あもうりんぺい)

コンプラ不況(1)―断裂―

「やれ法令遵守だとか内部統制だとか、あんたらが騒ぐから仕事がやりにくくなるんだよ」
「規則キソク規則で、営業の足をひっぱることしか考えていないのかねえ。この不況はコンプライアンスに力を入れすぎたせいだね」

こういった声は、2007年施行の金融商品取引法で新たな内部統制の枠組みが示されたころから勃発した。いまはすこし沈静化しているが、なくなったわけではない。

冒頭のような不満は根拠があるのか。コンプラ不況は実際にあるのか。ここで筆者の見解を述べておこう。

「そのとおりである」

もし事業活動の足をひっぱるように見えていれば、そのコンプライアンスなり内部統制なりのほうが悪い。残念だが、実際に足をひっぱるような場面はよく目にする。

■「重箱の隅」型監査

「内部監査の結果を知らせます。書類の細目の、ほらここが抜けてますよ。それからこっちにハンコが押してない。気をつけてもらわないと」
「事故った? だから言わないこっちゃない。リスクだと指摘しておいたじゃないか。ほら見なさい。○○年○月の監査でさ」

内部監査の現場を見ると、細かなルール違反やちょっとした手落ちを指摘して鬼の首を取ったように騒いでいることがある。

細かなルール違反もケアしなければならないことがある(次回言及)が、それだけでは監査の目的を達したとは言えない。「それだけだ」と思っている監査人がいるのが問題だ。人には狩猟本能というものがあって、不備をみつけるのが達成感につながる?といった恐ろしい状況も考えられる。

■「なんでもリスク」型監査

一方で、リスクをやたらと並べたてる傾向もある。なるべく指摘を多くしておいて、なにかあったときに監査人の責任を回避するためだ。

リスクがあると言い放つのは簡単だ。だかこれには大きな弊害がある。あることないこと並べたリスクの中には、本来は放っておいていいものも多い。それにいちいち対応するのは現場のたいへんなコストになる。全国でそんなことが起こっていたら、まさにコンプラ不況だ。

被監査部門と監査部門の意識の断裂。監査部門の行動と本来の監査目的の断裂。では、どうすればいいのか。
次回へ。

(あもうりんぺい)

なぜ儲けるのか(2)

■儲け話が止められない

いまだに企業の最終目的を「儲けること」と信じている人がたくさんいる。企業人ばかりではなく経営の専門家でもそうだ。たとえばエリヤフ・ゴールドラット『ザ・ゴール』にも、はっきりそう書いてある。(この書は示唆に富む名著だが、いろいろ問題も多い。)

もうすこし、もってまわった言い方である「企業価値の最大化」も、「儲ける!」と同じ話だ。企業人があくせく働いて、企業価値を最大化(=株価を最大化)させ、投資家に奉仕するだけという構図だ。企業の最終目標がこれだという思い込みがある。

もともとは、投資家におもねって資本を集めたいという意図からだったのだろう。また投資家からも刷り込みがあった。企業の最上位の方針の中に、恥ずかしげもなく「企業価値の最大化」と書かかれているのをよく目にする。

なぜ、儲け話を止められなくなるのだろう。組織も個人も、それぞれにその原因をはらんでいる。兆というカネを動かす富豪にもCEOにもなったことがないので推測まじりだが、以下のことが考えられよう。

■組織が儲けを止められない理由

・企業が大きくなると、加速度的に多くの売上、多くの利益を求めるようになる。これは規模の拡大を善とみなす組織の構造的な問題だ。

・企業が大きくなると、構成員の質が変わってくる。「個人の安定を求める」といえばまだ聞こえはいいが、企業の蓄積を食いつぶすことを目的にしたような者が入社してくる。この流れは止めにくい。

・前述した、根拠もなければ歯止めもない価値観「企業の目的は儲けること」「企業価値の最大化」が刷り込まれている。背景に黒々と横たわるのが株主資本主義だ。

■個人が儲けに走る理由

・人は成績の数値に弱い。底辺に住む人にとって「稼ぎ」は生存のための営みだが、余裕のある人にとっての稼ぎは抽象的な数字だ。稼げば稼ぐほど、財産目録の数字肥大化に狂奔するようになる。

・権力には魔力がある。蓄財のステージが上がるごとに、持てる権力もふくらみ、さらにこれを求めるようになる。

・消費には魔力がある。いったん手にした生活水準は手放せないし、さらに上を求めようとするのは庶民でも金持ちでも同じだ。

■その消費の話だが

金持ちはしばしば、上限のない消費に走る。アラブやロシアの大富豪、新興国の専制的国家元首がよくやる行動だ。

純金のベンツ、自家用ジャンボジェット、一回のバカンスで使うお金が6800億円(注:6800万円ではない。6800円でもない)。ちなみに「金持ちが散財すれば、それだけ庶民も潤う」という説(≒トリクルダウン理論)を筆者は支持しないし、この説は学術的にも証明がない。

その一方で、部長クラスの家に住み、ホンダ・アキュラTSXに乗り、夏はTシャツ・冬はパーカーで過ごしながら5.5兆円の寄付をする世界屈指の大富豪(そう、ザッカーバーグ)もいる。

■看板を見直す

後世の歴史家は、20世紀後半を「儲けが止められなかった時代」、21世紀を「その潮目が変わった時代」と定義するかもしれない。潮目を見てほしい。あなたの組織の看板にある「企業価値の最大化」を、すこし見なおしてみてほしい。ほかにもっと、やることがあるはずだ。

(あもうりんぺい)

なぜ儲けるのか(1)

フェイスブックの創立者、マーク・ザッカーバーグ氏が5.5兆円の寄付を決定した。マイクロソフト創立者のビル・ゲイツ氏も以前から寄付活動に熱心で、先般も来日しておおいに話を盛り上げた。ともに2015年12月。これはどういうことなのか。筆者のまわりの声を拾ってみた。好意的な意見が圧倒的に多かったが、なかにはこんな話も。

「儲けすぎだからねえ。そのままじゃ憎まれちゃうよ。寄付は免罪符だろう」

「もっと名誉が欲しいとか。ただ儲けるよりも、寄付したほうが立派な人だと思われる。偽善という言葉もあるよね」

「そりゃ税金でしょ。アメリカじゃ、寄付すれば税金が安くなるっていう」

「キャッチ&リリースみたいだ。魚を釣って食べずに放す。カネを儲けて使わずに放す。なら、最初から釣らなくていいんじゃないの」

キャッチ&リリースは、いい例えかもしれない。だが最初から釣らないほうがいいとは思わない。なにかいいことをするとすぐ「名誉が欲しいんだろう」「偽善だ」と言いだす人がいるが、それに負けないのが勇気と信念だ。税金と免罪符説については、あとで言おう。

■ビジネスは望ましい集金装置

当サイトの基本コンセプトのひとつに「企業は、その本業で社会貢献をすべきだ」というものがある。良質な製品やサービスを適価で供給すること。雇用を確保すること。税金を納めること。これを真正な手段で、悪影響を最小限にして履行する限り、企業は社会貢献していると言える。しかしそれでも儲けすぎてしまったときは、どうするのか。

ビジネスは、社会で最も多くのカネが動く仕組みだ。これを利用して、企業活動で得た利益を社会に還流させる。みんなが上手に運用すれば、社会、とくに底辺のための大規模な集金装置として働かせることができる。資本主義が根源的に内蔵している格差問題に対して、小さくない規模で補正を施すことができるのだ。

筆者はザッカーバーグ決定を、歴史的に重要な事件と捉えている。「ソーシャルビジネスがなくなる日」で言った「胎動」が、目に見える潮流になってきている。その好例だ。5.5兆円の寄付を免罪符といって片付けられるだろうか。

■その意義が立証されていく

ザッカーバーグ氏が寄付する相手は慈善団体ではない。みずから設立した企業体(LLC)だ。このことが疑惑を呼んだ。手のこんだ節税対策ではないか。しかし節税対策なら、財団の慈善団体を設立して寄付するのが米国でのセオリーだ。あえてそうしなかったのは、「自分の意思で寄付金の投入先を決めるため」と氏は述べている。

氏らの企業体、Chan-Zuckerberg Initiative は、利益を生み出しながら、社会的意義のある活動に資金を供給していく。そうするとこれはもう「ソーシャルビジネス」そのものだ。前掲「ソーシャルビジネスがなくなる日」で述べた、すべての企業が当たり前に目指すべき姿に近づくことになる。金額に大小はあるにしても。

疑惑や憶測の背景には「人は自分の利益だけのために突き進むものだ。5.5兆円を寄付する人間だって例外ではない」という固定観念があるように思えてならない。いずれにしても、ザッカーバーグ氏の資金をめぐる動向は、社会の厳しい監視を受けることになる。そこまで計算して踏み切ったこの寄付行動は、やがてその意義が立証されていくだろう。

(あもうりんぺい)

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