のにトーク・ピッカー

友達の童間は、モノづくり系のオタクだ。いつでもどこでも作戦にとりかかれるようにツナギの服を愛用している。その胸ポケットから、名刺入れぐらいの箱を取り出してきた。

「なんだそれ」
「名づけて、《のにトーク・ピッカー》」
「…?」

童間「いいかアモウ。おれは気づいたんだが、世の中には《のにトーク》というものがある」

天生「のにトーク?」

童「職場で、こんな会話を聞いたことがないかな。『この書類の書き方、面倒よね。もっとこんなふうにすればいいのにねえ』とか、『この製品、苦労して官庁に売り込んでるみたいだけど、家庭用にして売ればいいのに。そうよねえ』とか」

天「つまり《のに》で終わる会話か。そういうのはあるな。ランチのときとか、廊下の立ち話とかで」

童「トイレやパウダールームでも。あと密度が高いのは給湯室だ。『OLのウワサ知ってる給湯器』なんて川柳があるぐらい。(調べたけどすみません、詠み人知らず。)
あちこちで展開されている《のにトーク》は、会社にとって改善ネタの膨大なライブラリだったりする。これが人知れず言いっぱなし、聞きっぱなしで給湯室のシンクから流れ落ちてしまうのは、いかにももったいない」

天「なるほど」

童「そこでこのピッカーを作った。まだ試作機だけどね。最初は給湯器として開発しようとした。だが重すぎて、運んでいるうちに腰を痛めた。だから手のひら大のサイズにしたんだ」

天「ああ、小さくして正解だったようだ」

童「さっき言ったいろんな場所に、これをさりげなく貼りつけておく。マイクから拾った音を高速度で解析して、のにトークだけを抽出。その場でWiFiを使ってサーバに収集する。これを設置した会社は、強力な改善ネタ集を手にすることになるぞ」

天「あのなあ童間。そんな盗聴まがいのことをしていいのか。捕まるんじゃないのか。それならもっと、そういった人を集めてインタビューするとか」

童「わかってないな。のにトークは1回限りですぐ忘れる。パウダールームや給湯室といった、オジサンのいないリラックスした場所でないと出てこない。それに盗聴なんていうけど、これは《いいこと》なんだ。声紋で声の主はすぐわかるから、本当に役立つアイディアは表彰すればいい」

天「そんなにいいアイディアなら、会社にちゃんと提案しなさいって言えば」

童「のにトークをする人たちは、正式な提案活動につなげようという気持ちがないんだ。性差別するわけじゃないが、女性の一般職の人に多い。彼女らは能力のわりに低い地位に置かれていて、改善とか提案とか、そういったことを期待されていない」

天「じゃ、期待するようにすれば」

童「もし提案しても、受け取る側の上司に偏見があるから、つぶされるのがオチ。出世もハナからあきらめていて、だから給湯室での《〜のにねえ》で、言いたい気持ちを発散させて、それで終わりなんだよ」

一週間後、「童間が寝込んでいる」というウワサを耳にした。お見舞いにいくと、なんだか魂が抜けたような童間がいた。あの試作機をバイト先の会社でひそかに使ってみたらしい。彼の重い口から出てくる話をつなぎ合わせると、こんなふうになる。

まだアルゴリズムのバグが抜けきれなくて、だいぶノイズが入った。《のにトーク》以外の、かなりの量の内緒話、ウワサやゴシップが収集データに混ざりこんだということだ。それを聞いているうちに、会社の中の上と下、人と人、表と裏の、やりきれないほどの《真実》を知らされて、それが童間のナイーブな感性を直撃していった…。

(あもうりんぺい)

保守性10倍の法則

一見同じような企画案が2本ある。ふたつの会社で、企画案はそれぞれどのような運命をたどるのだろうか。

■江井社、経営会議

プレゼン後の質疑。企画自体の評価よりも、細かな点の質問が多い。ひととおり進んだころに、ある役員が口を開いた。「業界にあまり先例がない売り方だ。売上予測は確かなのか。思ったように売れなかった、というリスクがあるんじゃないか」

企画部長が弁明に立った。「テストマーケティングは実施しました。このように」と資料を示しながら。だが「そんなものが当てになるのか」と一蹴されてしまった。

「リスクがある」といった意見には、どの役員もはっきり反論しないし、賛成もしない。最後に議長である社長が締めくくった。「この案件は時期尚早ということでよろしいでしょうか。リスクもあるようですし。では企画部には引き続きの検討をお願いします」

テスト販売までしてから、「売れないかもしれない」と言われても反証のしようがない。一度こんな理由で差し戻された件は、いくらがんばって対策しても「リスクはリスク」となって、浮かび上がれない。

■備意社、経営会議

営業担当役員
「なんだよ、販売チャネルの設定が粗削りだな。C社とD社のスジはどうした。よし、おれがさりげなく当たってきてやろう。なに大丈夫、新製品のマル秘情報は言わないから」

財務担当役員
「事前に議案をチェックしました。収益の現在価値換算が甘くて、すこし削らないといけません。しかし借入金を増やすことで金利分を節税できます。総合すると利益プラスに修正できますよ。こんどから経営会議前でもいいから財務部に相談してください」

製造部門担当役員
「企画部からこの案をもらったとき、いい話だと思ったよ。だから早急にすりあわせをやり、完成度5割というところでこの会議にかけたんだ。それ以上たたいても、スピード感がなくなってしまうからな」

社長
「リスクとリターンを秤にかけてみました。リスクの内訳が大切だが、失敗しても社会に迷惑をかけるリスクがありませんね。お客さまに喜んでもらえる見込みはもちろんあります。利益については不確定なところもあるが、それは当たり前。これはとりあえずGOです」

■組織の空気が決める

江井社のような組織では、会議出席者のうち一人が懸念を示すと自動的に廃案になる。企画の良し悪しよりも、出席者同士の対立を避けることが大切なようだ。論理的な反論でなく、「リスクがあるねえ」といったあいまいな意見でも、最後には通ってしまう。

だれかが否定的な意見を出すと否決される。出席者が10人いるとすると、一人の判断にくらべて、否決の可能性は一気に10倍になる。新しいことに踏み出さないという保守性が10倍。これが江井社の会議が持つメカニズムだ。

備意社では、出席者がそれぞれプロフェッショナルな視点で、寄ってたかって原案をふくらませているようだ。最後にはリスクを取る決断がある。原案の何倍かリッチになった企画が、迅速にすべり出すことになる。

江井社と備意社。読者の組織はどちらに近いだろうか。

(あもうりんぺい)

無表情ですれちがう組織

ある組織を訪問して、断続的に半年ほど通っていたときの話だ。
廊下を歩いていると、とても気になることがあった。

■挨拶がない!

仮にA社としておこう。
上司部下らしき間だと、部下のほうが一礼または「おはようございます」と声をかけ、上司は無反応。同格の間だと、もっと気さくに声をかけあう。これはどこの組織でも見られることであり、A社でもそうだった。

問題はあまり知らない同士の間だ。大きな組織なので、廊下で会う人は知らないことのほうが多いはずだ。それでも、すれちがうときなどは普通なら軽く会釈するものだろう。

筆者が言うのは、すこし表情をゆるめて相手の目を見る、またはわずかにうなずく。そんな程度の会釈のことだ。だがそれがない。知らない社員同士なら「おつかれさまです!」という会社もあるのに。

■会釈してもなにも返ってこない

「来館者証」を胸につけていたからだろうか。でもそれなら、外来者には会釈どころか「こんにちは」という会社もあるのだ。さらに、すこし迷ったそぶりがあれば「ご用件はうけたまわっていますでしょうか」という声がけをしてもいい。これは不審者を見分けるためのセキュリティ対策でもある。

社員同士はどうするかと観察しても、おたがい無表情、というか非常に硬い表情ですれちがうばかりだ。まるで新宿の人ごみを歩いているみたいに。

■疑問だったので、A社の人たちに聞いてみた。

「廊下や、エレベータでのことなんですけどねえ…」
ずいぶん不しつけな質問をしたものだが、飲み会でリラックスしていた。

「会釈がない? うーん、そうですか」
意識していなかった様子だ。
「まあべつに社内で挨拶しても、売上が上がるわけでもないしね」
(そうだったか。筆者は「社内で挨拶すれば売上が上がる」と思うのだが。)

■呑み物が体内をかけめぐってきたころあいに

こんな発言が出てきた。
「それはあれだな、相手がだれだかわからない」
「そりゃそうでしょう。知らない同士でどうするかの話なんだから」
「いや、相手がだれだかわからないから、挨拶のしようがない」
「はあ?」
「役員の顔はだいたい知っているけど、知らない人もいる。ぞんざいに挨拶なんかできない。出入り業者や平社員のこともある。あんまりていねいにするとバカを見る」
「だから、挨拶できない?」
「そう。あんまり考えてもみなかったけど、きっとそんな感じだな」

■「なるほどねえ。そんな感じだよなあ」

と賛同する人も出てきたりして、これはA社を支配する空気のようなものらしかった。知らない役員もいるし、出入り業者もいるなら、だれにでもていねいに挨拶しておけばよさそうなものだ。だがそういう発想ではないらしい。

筆者は納得していなかった。それからもずっと、当たり前のように「すれちがいの会釈」を続けていた。そのせいかどうかは知らないが、A社に通った半年間の終わりのころには、すこしずつ「すれちがいの会釈をする、会釈を返す」人が出てきていた。

あれからすこし時間がたっている。A社の顧客対応や業績では、あまりいい噂はなかった。これからどうなるか気になっているところだ。

(天生臨平)