なぜ儲けるのか(2)

■儲け話が止められない

いまだに企業の最終目的を「儲けること」と信じている人がたくさんいる。企業人ばかりではなく経営の専門家でもそうだ。たとえばエリヤフ・ゴールドラット『ザ・ゴール』にも、はっきりそう書いてある。(この書は示唆に富む名著だが、いろいろ問題も多い。)

もうすこし、もってまわった言い方である「企業価値の最大化」も、「儲ける!」と同じ話だ。企業人があくせく働いて、企業価値を最大化(=株価を最大化)させ、投資家に奉仕するだけという構図だ。企業の最終目標がこれだという思い込みがある。

もともとは、投資家におもねって資本を集めたいという意図からだったのだろう。また投資家からも刷り込みがあった。企業の最上位の方針の中に、恥ずかしげもなく「企業価値の最大化」と書かかれているのをよく目にする。

なぜ、儲け話を止められなくなるのだろう。組織も個人も、それぞれにその原因をはらんでいる。兆というカネを動かす富豪にもCEOにもなったことがないので推測まじりだが、以下のことが考えられよう。

■組織が儲けを止められない理由

・企業が大きくなると、加速度的に多くの売上、多くの利益を求めるようになる。これは規模の拡大を善とみなす組織の構造的な問題だ。

・企業が大きくなると、構成員の質が変わってくる。「個人の安定を求める」といえばまだ聞こえはいいが、企業の蓄積を食いつぶすことを目的にしたような者が入社してくる。この流れは止めにくい。

・前述した、根拠もなければ歯止めもない価値観「企業の目的は儲けること」「企業価値の最大化」が刷り込まれている。背景に黒々と横たわるのが株主資本主義だ。

■個人が儲けに走る理由

・人は成績の数値に弱い。底辺に住む人にとって「稼ぎ」は生存のための営みだが、余裕のある人にとっての稼ぎは抽象的な数字だ。稼げば稼ぐほど、財産目録の数字肥大化に狂奔するようになる。

・権力には魔力がある。蓄財のステージが上がるごとに、持てる権力もふくらみ、さらにこれを求めるようになる。

・消費には魔力がある。いったん手にした生活水準は手放せないし、さらに上を求めようとするのは庶民でも金持ちでも同じだ。

■その消費の話だが

金持ちはしばしば、上限のない消費に走る。アラブやロシアの大富豪、新興国の専制的国家元首がよくやる行動だ。

純金のベンツ、自家用ジャンボジェット、一回のバカンスで使うお金が6800億円(注:6800万円ではない。6800円でもない)。ちなみに「金持ちが散財すれば、それだけ庶民も潤う」という説(≒トリクルダウン理論)を筆者は支持しないし、この説は学術的にも証明がない。

その一方で、部長クラスの家に住み、ホンダ・アキュラTSXに乗り、夏はTシャツ・冬はパーカーで過ごしながら5.5兆円の寄付をする世界屈指の大富豪(そう、ザッカーバーグ)もいる。

■看板を見直す

後世の歴史家は、20世紀後半を「儲けが止められなかった時代」、21世紀を「その潮目が変わった時代」と定義するかもしれない。潮目を見てほしい。あなたの組織の看板にある「企業価値の最大化」を、すこし見なおしてみてほしい。ほかにもっと、やることがあるはずだ。

(あもうりんぺい)

なぜ儲けるのか(1)

フェイスブックの創立者、マーク・ザッカーバーグ氏が5.5兆円の寄付を決定した。マイクロソフト創立者のビル・ゲイツ氏も以前から寄付活動に熱心で、先般も来日しておおいに話を盛り上げた。ともに2015年12月。これはどういうことなのか。筆者のまわりの声を拾ってみた。好意的な意見が圧倒的に多かったが、なかにはこんな話も。

「儲けすぎだからねえ。そのままじゃ憎まれちゃうよ。寄付は免罪符だろう」

「もっと名誉が欲しいとか。ただ儲けるよりも、寄付したほうが立派な人だと思われる。偽善という言葉もあるよね」

「そりゃ税金でしょ。アメリカじゃ、寄付すれば税金が安くなるっていう」

「キャッチ&リリースみたいだ。魚を釣って食べずに放す。カネを儲けて使わずに放す。なら、最初から釣らなくていいんじゃないの」

キャッチ&リリースは、いい例えかもしれない。だが最初から釣らないほうがいいとは思わない。なにかいいことをするとすぐ「名誉が欲しいんだろう」「偽善だ」と言いだす人がいるが、それに負けないのが勇気と信念だ。税金と免罪符説については、あとで言おう。

■ビジネスは望ましい集金装置

当サイトの基本コンセプトのひとつに「企業は、その本業で社会貢献をすべきだ」というものがある。良質な製品やサービスを適価で供給すること。雇用を確保すること。税金を納めること。これを真正な手段で、悪影響を最小限にして履行する限り、企業は社会貢献していると言える。しかしそれでも儲けすぎてしまったときは、どうするのか。

ビジネスは、社会で最も多くのカネが動く仕組みだ。これを利用して、企業活動で得た利益を社会に還流させる。みんなが上手に運用すれば、社会、とくに底辺のための大規模な集金装置として働かせることができる。資本主義が根源的に内蔵している格差問題に対して、小さくない規模で補正を施すことができるのだ。

筆者はザッカーバーグ決定を、歴史的に重要な事件と捉えている。「ソーシャルビジネスがなくなる日」で言った「胎動」が、目に見える潮流になってきている。その好例だ。5.5兆円の寄付を免罪符といって片付けられるだろうか。

■その意義が立証されていく

ザッカーバーグ氏が寄付する相手は慈善団体ではない。みずから設立した企業体(LLC)だ。このことが疑惑を呼んだ。手のこんだ節税対策ではないか。しかし節税対策なら、財団の慈善団体を設立して寄付するのが米国でのセオリーだ。あえてそうしなかったのは、「自分の意思で寄付金の投入先を決めるため」と氏は述べている。

氏らの企業体、Chan-Zuckerberg Initiative は、利益を生み出しながら、社会的意義のある活動に資金を供給していく。そうするとこれはもう「ソーシャルビジネス」そのものだ。前掲「ソーシャルビジネスがなくなる日」で述べた、すべての企業が当たり前に目指すべき姿に近づくことになる。金額に大小はあるにしても。

疑惑や憶測の背景には「人は自分の利益だけのために突き進むものだ。5.5兆円を寄付する人間だって例外ではない」という固定観念があるように思えてならない。いずれにしても、ザッカーバーグ氏の資金をめぐる動向は、社会の厳しい監視を受けることになる。そこまで計算して踏み切ったこの寄付行動は、やがてその意義が立証されていくだろう。

(あもうりんぺい)

photo: creative commons 2.5

ソーシャルビジネスがなくなる日

※ソーシャルビジネス:社会問題の解決を目的として収益事業に取り組む事業体のこと(Wikipedia)

ソーシャルビジネスなんて、そのうちになくなる。

なぜなら、すべての企業がソーシャルビジネスになるからだ。全部がそうなれば、ラベルづけに意味がなくなる。ソーシャルという言葉がビジネスから消えることになる。

そんなことになってしまうという根拠はあるのだろうか。

新しい価値観に裏打ちされた、新しい生活と産業の枠組みが胎動しているというのがその根拠だ。以下のように。

■あちこちで胎動がある
・消費者の選択は、社会的意識の高い企業に高得点を与えている。同じようなものなら、社会貢献のイメージがついた企業の製品を選ぶ。

・就職活動においても、環境優良企業など社会的に好ましい活動をする企業に良質の人材が集まる傾向がある。

・「食の安全」を中心に、消費意識が変わり始めている。健康をむしばむ食品添加物などに敏感になった。すこしでも販売を伸ばし、コストを下げるために、消費者の健康を代償にしているように見える。一部の消費者が走りすぎて白を黒と断定してしまうところもあるが、それも含めて企業側では無視できなくなり、対応に躍起だ。消費者側では、「そうまでして儲けなくてはいけないの?」といった、企業活動の基本的枠組みへの不信感が芽生えつつある。

・ソーシャルインベストメント(*)という言葉を持ち出すまでもなく、社会や環境に配慮する企業に投資が集中してきている。これは単に企業イメージや投資家の自己満足の問題ではない。社会的意識の高い企業は、消費者も集めるし良質な人材も集める。中長期にわたって安定した成長が見込めるというのがこの背景だ。
(*)ソーシャルインベストメント:株主が積極的に発言し、企業の社会貢献活動を活発化させること。またそのための投資。ソーシャルファンディング(≒クラウドファンディング)とは別概念。

・リーマンショック以来、強欲資本主義が批判され、ピケティ『21世紀の資本』が上梓されるにおよび、ビジネスの世界に反省機運がある。明確な代替案が出ているわけではないが、いまの資本主義の枠組みは万全でも安泰でもない。小幅か大幅かはともかく、修正が入る可能性がある。それに備えておかなければ、といった認識だ。

・ボランティアに関する意識が変わった。大規模な災害が起きるたびに、若者を中心に多くのボランティア志願者が活動を始める。以前からそのようなことはあったが、気風として広がっている。かれらの一部で、スキルが拙かったり意識が熟していなかったりして足手まといになったといったこともあるようだが、それは別の話だ。ボランティアの組織のしかたもやがて洗練されていくだろう。問題は、社会貢献への直接的な意欲が、はっきり行動化していることだ。

■ばらばらだったものが重なり合う
冒頭にあげたソーシャルビジネスの定義には「社会問題の解決」と「収益」が混在しており、その両立が要件になっている。これは「働く意義」そのものではないか。ソーシャルじゃないビジネスを想定すること自体が矛盾をはらんでしまう。間違えたくないのは、収益最優先の活動を「倫理」や「(旧来の意味での)社会貢献」でメッキしたものが目指す姿ではないということだ。

企業の成り立ちは元来、ソーシャルビジネスだったはずだ。明るさと安全と便利のために人は電力会社を作った。豊かさと安全と便利のために自動車会社を作った。それらに素材を提供するために鉄鋼会社も立ち上がった。すべては人と社会のためだった。

ソーシャルビジネスとボランティアは、とりあえずは違うものだ。だが基本になる考え方は似ている。さてそれら両方が「自分には関係ないものだ」と思っていなかったか。そんなものは、もの好きがすることだ。年端のいかない者の気の迷いだ。頭をつっこむ余裕なんてない。責任ある者はそんなことに付き合ってはいられない。いや結構なことなのでおおいにやってください、でも私は知らない。などなど。

どっこい、それは違うのだ。社会貢献と収益と、仕事として取り組むべき課題とが、別々だったのが重なり合うことで本来の姿を取り戻す。そんな変化がすこしずつ起こってくる。

「ソーシャルビジネスがなくなる日」に対して、気持ちの備えはあるだろうか。

(天生 臨平)

とある商店のブランド戦略

「都亜留商店って、ほんとに親切よね」
「おやじさんだけじゃなくて、全員が親切なのよ」
「親切、ってことばを聞くと、まずあのお店がぱっと浮かんでくるの」

時は流れる〜

「ここんとこ都亜留、都亜留って、うるさいわね」
「駅前にでっかい看板なんか立てちゃって」
「この町を代表するブランド、なんて書いてあるよ」

「でも都亜留商店って、親切じゃなくなっちゃった」
「先代が引退してから、しばらくは良かったのよ」
「人が入れ替わってくると、だんだん親切じゃなくなって…」
「いまではぜんぜん」

「親切だから、みんなひいきにしていたのに」
「親切がブランドだったのに、いまじゃ空っぽ」
「品物もよくないし、値段も上がっているし」
「つまらないから足が向かなくなっちゃったわ」

都亜留商店のような例はよく目にする。

なにがよかったのか、いけなかったのか。店の人たちに聞いてみよう。
まずは他界した先代を、冥界から引っ張ってくる。

「客がさ、喜んでくれる顔がなによりだった。
だからすこしでもいいものを、安くして勧めたもんだ。
おかげでみんなよく店に来てくれて、こっちもうれしいや。
なにブランド? 知らねえよ、なにそれカタカナ? わかる言葉で言ってくんねえ」

当代の店主。

「先代が作ってくれたブランドがなにより財産ですから、しっかり守ってまいりませんとね。
類似の商号やロゴなどには厳しく当たっております。専任の担当がいるぐらいでございますから。
顧客対応? はいそれはもう、お客さま本位でやらせていただいております。もちろんでございますよええ」

(天生 臨平)